[#表紙(表紙.jpg)] ワンナイトミステリー 「ナイルの甲虫」殺人事件 吉村達也 [#改ページ]   眠れない夜に──    ワンナイト ミステリー [#改ページ] 目 次  1 王家の谷に死す  2 朝比奈耕作、エジプトへ  3 ルクソールの再会  4 生者の町と死者の村  5 太陽の神のもとで  6 ミイラの中身  7 心臓スカラベは語る  8 封印された結末  エピローグ ルクソールからのEメール  ルクソールのローカルフェリー [#改ページ]    1 王家の谷に死す[#「1 王家の谷に死す」はゴシック体]  まさかわずか二十歳の若さで自分がこの世を去る運命にあろうとは、農学部三年生の岡崎拓哉《おかざきたくや》は想像もしていなかった。それもミイラの本場ともいうべきエジプトの「王家の谷」で、ミイラの姿をしたまま死ぬことになろうとは……。  いま彼は、全身を包帯でぐるぐる巻きにされて「王家の谷」に横たわっていた。時刻は真夜中、雲ひとつない砂漠の上空からは、燦々《さんさん》と月光が降りそそいでいる。その月明かりだけでなく、頭と両脇《りようわき》に置かれた三本の太いロウソクの炎によっても、彼の奇妙な姿は照らし出されていた。  岡崎拓哉にとって、ミイラ姿で王家の谷に置かれるというシチュエーションじたいは了解済みのものだった。これは大学の映画製作同好会で自主製作する映画のワンシーンであり、彼は自分からすすんでミイラの役を引き受けていたからである。  映画のメイン舞台に設定された王家の谷は、エジプトの首都カイロから六百五十キロ南へナイル川を遡《さかのぼ》ったルクソール——古代エジプトではテーベという名で都として栄えたその場所にあった。ルクソール駅やカルナック博物館、そして壮大な大列柱室で名高いカルナック神殿などがあるナイル川東岸から、橋を利用するかフェリーボートで対岸へ渡り、そこからさらに西へ進むと、ツタンカーメン、アメンヘテプ二世、ラメセス六世、トトメス三世などエジプト第十八王朝から第二十王朝を中心とする王家の墓が集中しているエリアがある。そこが名高い王家の谷だった。  王家の谷は「東の谷」と「西の谷」に分かれており、東の谷のさらに東側の切り立った崖下《がけした》には、壮大なハトシェプスト葬祭殿《そうさいでん》を筆頭に数々の葬祭殿が並んでいて、ナイル東岸のカルナック神殿とともに、ルクソールにおける遺跡観光の中心地となっている場所である。  日本からきた男子四名、女子一名の総計五人の大学生がこの地を訪れたのは一月下旬、観光ラッシュのピークも過ぎて静かな時期だった。  大学の映画製作同好会に入っていた拓哉たち五人は、いずれは自分たちが日本の映画界をリードする存在になるという野望に満ちあふれていた。だが、映画製作に憧《あこが》れる多くの若者がそうであるように、彼らもまた強く影響を受けた作品のアイデアを模倣するところからはじめていた。お手本となったのは、学生たちによる超低予算の手作り映画にもかかわらず、ハリウッドでメガヒットとなったホラー映画の『ブレアウィッチ・プロジェクト』である。  五人が撮ろうとしている作品は、学生たちの発案による映画である点、事前にきちんとした台本を作らず、その場の成りゆきで筋を展開させてゆく点、呪《のろ》いの伝説をテーマにしたホラー映画である点、そしてプロ用のビデオカメラのほかに家庭用のデジタルビデオカメラを手持ちで使う点までお手本をそっくり真似た、きわめてオリジナリティに欠けた「プロジェクト」ではあった。ついでに言えば、映画製作同好会の顧問教授から企画段階で酷評された点でもそっくりだった。だから彼らはなおさら燃えていた。  しかし、プロの映画やテレビドラマ製作者でも、話題作のパクリを平然とやって知らん顔をしている人間はいるが、それはすでに商業ベースのローテーションに組み込まれた立場だからこそ許される二番煎《にばんせん》じであって、もしもアマチュアの学生たちが同じことをやれば、創造力の欠如をさんざん罵倒《ばとう》されておしまいという結果になる。その厳しい現実を、五人の学生たちは知らなかった。面白いものを撮れば、きっと大手の映画会社が目をつけて作品を買い上げてくれるだろうと信じていた。そしてある者は親のすねをかじり、またある者はアルバイトに精を出して「製作費」を捻出《ねんしゆつ》し、エジプト航空の格安チケットを手に入れてカイロまで飛び、そこからおんぼろのワンボックスカーをレンタルして、一日がかりでルクソールまでやってきたのだ。  砂漠気候のルクソールでは、一月でも日中の気温は二十度を越え、ときには直射日光下で温度計が三十度を越すこともあったが、極端に湿気が少ないため、夜になれば陸地の温度が一気に冷えて五度前後にまで下がる。だが、映画撮影のためにミイラに扮《ふん》した拓哉は、寒さ対策は万全だった。裸身に布を直接巻かれているのではなく、黒いジャージーの上下を着て靴下もはいていたからである。その上からラメセス三世のミイラのように、胸のところで腕をクロスさせた形で布を巻かれているのだ。  布といっても、本物のミイラに使われていた亜麻布は、いまは容易に手に入らないから、薬局で市販されている包帯のかなり幅の広いものを何十巻も用意することで代用した。ただし、そのままでは白すぎて雰囲気が出ないので、あらかじめ染料で泥色に染める工夫がされていた。  その包帯を左右の手足ごとに独立して巻くのではなく、両手は胸の上にクロスさせて載せ、足は二本きっちり揃《そろ》えたまま、つま先から頭へ向けて単純なぐるぐる巻きにしていく方法がとられた。その巻き方が非常に密であったため、伸縮性の素材であるにもかかわらず、全身を巻かれた拓哉はまったく身動きがとれなくなっていた。左右合わせて縛られた両足は、膝《ひざ》の関節部分を曲げることもできず、いったんあおむけに寝かせられてしまえば、寝返りを打つことも横向きになることも不可能だった。腹筋の力を使って起きあがろうとしても、それもできない。  顔のところは呼吸を妨げないように配慮してはあったが、それでも鼻の上も二重に包帯が巻かれており、アゴの動きなども完全に封じられているため口を開けることはできなかった。だから、何かしゃべろうにもうめき声ぐらいしか出せない。いくらミイラ役を演じさせるにしても、ちょっとやりすぎではないかと、岡崎拓哉はこの装いを整えた男に対して不満を抱いていた。  だが、もはや文句を言おうにも口を開くことができない。もちろんこれは映画のための演出だから、撮影が終われば拘束は解かれる。けれどもその終了までの時間が長かった。じつに五時間後である。しかもその間は、自分の周囲に誰ひとりいなくなってしまう段取りになっているのだ。そのことに彼は恐怖を感じていた。  昼間は観光客やそれ目当ての物売りでにぎわう王家の谷周辺も、いまは人影がすっかり消えてしまい、クルナ村から夜風に乗って聞こえてくる犬の遠吠《とおぼ》えがかすかに耳につく程度で、おそろしいほど静まり返っていた。この一帯の砂っぽい地面は、日中では強烈な日射しのため真っ白に輝いていたが、夜は夜で月の光を浴びせられて青白く光っている。砂漠といえば赤茶けたイメージがあるが、ここでは精製された砂糖に薄茶色のザラメを少しだけ混ぜたような色合いで、全体としてかなり白っぽい印象があった。その視覚的な印象が、なおさら静けさを際だたせていた。  拓哉が横たえられた場所は、西の谷からさらに南西へ進んだ、夜間警備の人間の目にもふれないところだった。その岩陰にミイラ姿で寝かせられた彼は、もしかすると夜の間に、自分はほんとうに妙なものに取り憑《つ》かれるのではないかと本気で怯《おび》えはじめていた。その怯えは、彼らが撮ろうとしている映画の設定にも大いに関係があった。  岡崎拓哉はミイラの格好をさせられていたが、劇中でミイラそのものを演じているのではない。五人で事前に相談して決めておいた大まかな物語の展開はこうだ。  親友と恋人と三人でエジプトを旅していた大学生の「進」は、ふとしたことから、古代エジプトの王《ファラオ》のミイラを包んでいたという布を、現地のいかがわしげな古物商から手に入れる。その布に包まれていたはずのミイラ本体は、なぜか行方がわからなくなっているというのだ。  その黴臭《かびくさ》いミイラの布を手に入れた夜、進は「おまえの身体をその布に包み、満月の夜に王家の谷に横たわれ」と一匹の黒猫に告げられる夢をみる。「そうすれば、おまえは第十八王朝のファラオとなり、古代エジプトの栄華の時代に為政者として蘇《よみがえ》ることができるだろう」  目が覚めた進は、いまみた夢のお告げのとおりにすれば、自分の意識がファラオのそれと合体して三千数百年の時を遡り、王家の谷に王墓が建設されるようになった古代エジプトの新王国時代第十八王朝へとワープできると本気で信じた。そして、黒猫の指示どおり、自らをミイラの布に包んで王家の谷に横たわろうと決心する。  その計画を聞かされた進の恋人と親友は、そんなことをしたら何かよくないことが起きると猛反対する。だが、その反対意見をはねつけ、進はふたりに命じて自分の身体に問題の亜麻布を巻きつけさせ、ミイラ姿になって真夜中の王家の谷にひとり残されるのだ。霊との交信の障害になるといけないから、ふたりはしばらく遠くに離れていてくれと指示して。  まったくのひとりぼっちとなった進は、あおむけになった背中にエジプトの大地を感じ、頭上に満天の星空を感じながら、ファラオの霊を自らの脳へ呼び込むために意識を集中させる。ところが、彼は古代エジプトの王ではなく、恋人たちが懸念していたように、恐るべき邪悪な霊とコンタクトしてしまい、数時間後に布を解かれてみると完全に狂っていた——  これが日本にいる間に五人で考えたドラマのオープニングだった。では、その邪悪な霊とは何なのか、狂った進はこのあとどうなるのかという具体的な展開は、エジプトに着いてから現場で考えようということになっていた。よく言えばブレアウィッチ方式だが、実際のところは、思いついたアイデアをひとつの物語として完結させる構成力に欠けていたというほうが正しかった。だから、現場のアドリブに頼るしかなかったのだ。  そこで進の発狂シーンに関しては、なんとしてもその後のストーリー展開のヒントを与えてくれるような迫真の場面としたかったため、進を演じる人間は、実際に王家の谷にミイラ姿で数時間ひとりぼっち取り残され、肉体のみならず精神状態も極限に追い込んだうえで包帯をほどかれる場面を撮ろうという打ち合わせになっていた。  これもまた、森の中に実際に三人だけで夜明かしをした『ブレアウィッチ・プロジェクト』の製作エピソードを真似たものだったが、ただひとつ異なる点は、こちらのプロジェクトでは、暗闇《くらやみ》の非日常空間に取り残されるのは三人ではなく、たったひとりというところだった。そこに、恐怖が三倍増どころか十倍にも二十倍にも増幅されるという計算があった。  そしていま、そのアイデアが実行に移され、岡崎拓哉は午後十一時ごろからひとりきりで王家の谷に残された。映画内の設定と同じようにその場所に五時間、まったく身動きのとれない状態でほうっておかれるのだ。ほかの四人の仲間たちは、そばで様子を見守っているのではなく、ナイル河畔の夜景を撮影しにいくなど、現場を完全に離れることにしていた。  だから拓哉は、ファラオたちの墓が並ぶ異国の地で手も足も動かすこともできず、包帯の隙間《すきま》から月光を感じ取ろうとしても、まぶたさえ開けることができず、唯一可能な動作である、口を閉じたままうめき声を洩《も》らすことをしたとしても、それを誰かに聞かれることもない、完全に孤立した閉鎖状況に置かれていた。ただ、岩陰に隠したビデオカメラだけが、淡々とその状況を記録しつづけていた。  拓哉の頭を囲むように三本のロウソクが炎を灯され立ててあるのは、たんなる雰囲気作りだけではなく、このビデオ撮影の照明の役割も果たしていた。連続六時間まで撮影できるテープと大容量バッテリーを備えたカメラは、長時間の「降霊実験」中に実際に何か異様な映像が撮れないかという期待も込めて回しっぱなしにしてあるのだ。  それは拓哉が寝そべっているところから数メートル離れた岩の上に置かれ、あおむけになったミイラの周囲を大きく入れ込める超広角レンズを取り付けて、俯瞰《ふかん》ぎみのアングルで撮影するようにセットされていた。ただし、その撮影状況をリアルタイムでモニターしている人間がいるわけではない。ここで拓哉の身に異変が起きようとも、それは自動的に映像に記録されるだけである。  積極的にこの役を引き受けた岡崎拓哉だったが、じつは、ひとりぼっちにされてから十分も経たないうちに、ちょっとした後悔に襲われていた。暗闇にひとりでいることじたいは、それほど恐いと思わなかった。それよりも拓哉がいま恐れているのは、身体を動かしたくなる衝動にどこまで耐えられるかということだった。  人間は、ひとつの動作を禁じられると、よけいにそれをしたくなる反射神経のようなものがある。たとえば絶対に咳払《せきばら》いをしてはいけないと命じられたとたん、いままで何でもなかったのに、急に喉《のど》の奥がいがらっぽくなってゴホンと咳をしたくなる。あるいはベッドにあおむけに寝かされ、決して寝返りを打ってはいけないと言われたとたん、あおむけのままでいることが苦しくなる。背中を掻《か》いてはだめだよ、と言われたとたん、背中がむずがゆくなる。  ふと考えると、拓哉はそのすべてができなくなっているのだ。咳払いぐらいはできるかと思ったら、口を閉じたままの咳払いは苦しいだけで、少しも喉の違和感を追放する効果がない。それどころか息苦しくなるばかりだった。これまで気づいたこともなかったが、咳払いというのは、それをした直後に排出した空気とほぼ同じ分量の空気を口から大きく吸い込む反射運動を伴っている。ところが口を塞《ふさ》がれていると、大量の空気の出入りを鼻だけでやらねばならなくなる。これが想像以上の苦痛なのである。  かゆみの問題も浮上してきた。身体を掻きたくなったら困るなと思ったとたん、まず髪の毛の中がかゆくなった。ついで背中、尻《しり》とかゆい場所が次から次へと生じてくる。それを掻けないいらだちも最悪だった。せめて動物がやるように、なんとか身体を地面にこすりつけようとするのだが、それもまったくできない。頭ぐらい左右に動かせるかと思ったら、包帯があまりにもしっかり巻かれているため、それもかなわなかった。五時間も身動きがとれないまま、かゆいのに掻けない苦痛などと闘わねばならないのかと思うと、拓哉は頭がおかしくなりそうだった。  だが、懸命に精神統一を心がけ、すべての神経を麻痺《まひ》させてしまうのだと自分に言い聞かせていくうちに、なんとか身体のあちこちを掻きむしりたいという衝動は去っていってくれた。  ともかくよけいなことを考え出したら苦痛が増すばかりだとわかったので、拓哉は何も考えずに予定の五時間が過ぎるのを待つことにした。  何も見えない状態でも時間の経過だけは知っておきたかったので、拓哉はカイロ時間に合わせた腕時計を左手にはめていた。毎時〇分になるとピッと一回だけ小さくアラームが鳴る設定にした腕時計だ。ミイラ姿になったのが午後の十一時過ぎだったが、それからまだ一度もアラームを聞いていない。つまり、まだ深夜の零時にはなっていないわけだが、まもなく一回目のアラームが鳴ってもよい時刻だろうと思っていた。  と、まさにそのとき腕時計がピッと鳴った。ようやく一時間が過ぎたのだ。 (あと四時間か)  先の長さに、拓哉はため息をついた。 (よけいな神経を高ぶらせるより、いっそのこと寝てしまったほうが楽だな)  そう思って、羊の数でも数えながら自分を寝かせてしまおうと考えたとき、拓哉は自分のほうに近づいてくる足音を背中に感じた。それもひとりではなく複数だった。  一瞬、拓哉は恐怖を感じた。仲間たちは遠くに行っているはずだし、こんな夜中に、こんな場所まで人がやってくるとは思わなかったからだ。そして、いま接近してくる足跡の主が何を考えていようと、拓哉にはまったく抵抗するすべがない。  緊張で身体が冷たくなった。が、その恐怖はすぐに安堵《あんど》に変わった。最初に聞こえてきたのが、ほかでもない拓哉の兄の声だったからである。 「おーい、気分はどうですかあ」  のんびりした口調で呼びかけてきた兄の雅也《まさや》は、拓哉と同じ大学の同じ農学部に通っていて、一期上の三年生である。 「もしかして、お水飲みたいんじゃないかと思って」  つぎに聞こえてきたその声は、拓哉のガールフレンド、沖美保子《おきみほこ》だった。彼女は拓哉より一つ下の一年生で、今回のロケメンバーの最年少で紅一点の存在だった。 「ルクソールって、カイロと較べてもものすごく乾燥してるじゃない。だから、水を補給してやったほうがいいぞ、ってみんなの意見がまとまって」  美保子と兄は、今回の映画で「進」の恋人と親友の役を演じる出演者でもあった。もちろん演じるだけでなく、スタッフワークもこなす「なんでも屋」で、美保子は衣裳《いしよう》コーディネーターの役を引き受け、兄の雅也は撮影機材に関しては五人のうちでもっとも詳しかった。  拓哉のところへ近づいてきたのはもうひとりいた。 「それに、演出的にもだいじなことを忘れていたからな」  その声は、兄のクラスメイトである天田芳樹《あまだよしき》だった。非常に小柄で沖美保子よりも背の低い彼は、今回のプロジェクトで事実上の監督の役割を果たしており、演出も彼が主導的な役割を果たしていた。芳樹の父親がそこそこ名前の知られた舞台俳優であったために、ほかの四人も芳樹の「血筋」に一目置いているところがあった。  包帯に包まれて何も見えない拓哉に聞こえてきたのはその三人の呼びかけだけで、残るもうひとり、メンバー最年長の小檜山努《こひやまつとむ》の声はしなかった。小檜山は、拓哉の兄の努と同じ三年生ではあったが、大学に入るときに一年浪人し、さらに二年の教養課程から三年の専門課程へ上がる段階で二年留年している。つまり、岡崎雅也や天田芳樹とは同じ学年でありながら三つも年上の二十四歳だった。百八十センチと大柄な点では拓哉も負けてはいなかったが、小檜山は仙人のような山羊鬚《やぎひげ》を伸ばしており、二十四歳どころか四十二歳でも通じそうな老け顔をしていた。その貫禄じゅうぶんな風貌《ふうぼう》から、雅也も芳樹も彼を「小檜山さん」と呼んで別格扱いしていた。  小檜山が大学を一年浪人したのも、在学中に二年留年したのも、試験の成績が悪かったためではなく、すべての青春を旅に費やしていたためだった。彼の趣味は海外ひとり旅で、これまでに回った国の数は七十近くにのぼり、このエジプトにも過去七回もきたことがあった。そのうち四度までがラクダやジープなどを使っての砂漠横断旅行という本格派である。かたことのアラビア語を話し、アラビア文字も読める彼は、こんどの撮影旅行では完全にコーディネーター役で、さらに運転手も務めていた。  彼らはカイロでレンタカーの八人乗りワンボックスカーをロケバス代わりに調達していたが、エジプトでの運転は、不慣れな者にはスリルの連続である。いまだにロバに引かれた荷車がガラガラと車輪の音を響かせてそこらじゅうを走り回っており、そうかと思えばタクシーや一般車輛は、歩行者の安全など頭の片隅にもないといった暴走ぶりを見せる。人が道路のこちらから向こうへ渡るのも命がけという状況なのだ。  そんなすさまじい交通事情にあっても、小檜山は何の苦もなく、くわえタバコに片手ハンドルといった気楽さで車を運転していた。小檜山に言わせれば「ルクソールなんてカイロに較べればちょろいもんだ」ということで、こちらにきてからは拓哉の兄である雅也も交代でハンドルを握ったが、まだ小檜山ほどの開き直りができていないようで、おっかなびっくりの運転ぶりだった。  そんなふうにメンバーの中で突出したエジプト体験を持つ小檜山は、王家の谷を舞台にした今回の作品の筋立てに関してもリーダーシップをとっていた。ファラオのミイラの中身が抜け出し、布だけが残されて後世に伝わっていたという着想も、小檜山によるものだった。ただ、彼もまたすべてオリジナルで話をまとめる能力があるわけではなかったので、けっきょくはレンタルビデオで見たホラー映画の継《つ》ぎ接《は》ぎのような展開しか思いつかなかった。だが、そこは年長者の貫禄で、いかにもすべて自分の頭からひねり出したような顔で次々にアイデアを出しては、ほかの四人を感心させていた。  その小檜山だけがいまこの場にいない理由は拓哉にもわかっていた。小檜山は、ほかの三人とは別行動をとっているのだ。それは拓哉も事前に承知済みだった。 「じつはねえ、進くん」  身動きできずに横たわっている拓哉に対し、役名で呼びかけてきたのは監督を受け持つ天田芳樹だった。 「きみをここに五時間あまりほうっておく計画に変更があったわけではない。予定どおり、このままストーリーどおりにファラオの霊との交信実験をつづけてもらいたいんだけど……もしもし、聞こえてるよね。聞こえていたら何か言ってほしいんだけど」  その問いかけに応じて、拓哉は口を閉じたままウーといううめき声を出した。実際、それ以外にしゃべりようがなかった。 「ああ、ちゃんと起きててくれてるね。あんまりおとなしいんで眠っているのかと思ったよ」  芳樹の言葉に、兄の雅也とガールフレンドの美保子の笑う声が聞こえる。冗談じゃない、こっちは眠るどころじゃないんだぞ、と拓哉は文句を言いたかったが、言葉を発することはまったくできない。 「水の補給のためだけに戻ってきたわけじゃないんだ。じつは作品のタイトルにもなる肝心の小道具を、きみの胸の上に置いておくのを忘れていた。スカラベだよ、スカラベ。せっかく美保ちゃんが、市場《スーク》で『心臓スカラベ』のいいイミテーションを探してきてくれたのに」  ああ、そうだった、と、芳樹の言葉を聞きながら、拓哉もその小道具のことを思い出していた。  彼らが作る映画の題名は『心臓スカラベ』になる予定だった。それはカイロの市場《スーク》でひとつのアクセサリーと出会ったときに決まった題名だった。  心臓スカラベ——いかにもホラーっぽい響きを持つ言葉だったが、これは純然たるエジプト考古学用語である。  スカラベとはナイル川流域に生息する甲虫《こうちゆう》の一種に与えられた学名だが、それを通俗的な名前に直すと、古代のロマンも何もあったものではなくなる。「ふんころがし」なのだから。正式な日本名はタマオシコガネムシ。  スカラベのオスは、動物が地面に排泄《はいせつ》した糞《ふん》を転がしながら丸めてゆく習性を持っている。そしてスカラベのメスは、最も大きな糞のボールを作ったオスのところへ交尾を求めてゆく。人間的な感性で解釈すれば、それはいちばん逞《たくま》しくて男らしい「人」に惚《ほ》れてしまった、ということになるのだろうが、実際にはもっと現実的な判断材料がある。メスはオスが丸めた糞の中に産卵するため、保温と保湿、さらに外敵からの保護を考えると、できるだけ大きい糞のボールに卵を産みつける必要があるからだ。  この産卵用の球体ベッドを作るために、オスはせっせと動物の糞をころがしながら大きくしてゆき、それを巣に運び込んでゆく。その様子が、古代エジプト人からみると、まさに太陽を運んでいるように思えたのである。ゆえに古代エジプト語で「ケプレル」と呼ばれたスカラベは太陽神として崇《あが》められ、またナイル川の氾濫《はんらん》のあとに必ずその姿を現すことから創造の神とも受け止められ、スカラベの顔をした神「ケプリ」を生みだした。  また、このナイルの甲虫の絵は、それじたいがヒエログリフと呼ばれる古代エジプト文字にもなっており、甲虫の絵ひとつで「hpr」の三音を表わす。その冒頭のhは日本語にはない強い呼気を伴う音で、「kh」と表記したほうが近い、「k」音と「h」音の合体したものである。したがってこの文字は、音声表記のバラエティに乏しい日本語では「ヘプル」と書かれたり「ケプル」と書かれたりするが、「k」音で表わす場合のほうが比較的多く、ヒエログリフの読みは「ケプル」、そこから派生したスカラベのエジプト読みは「ケプレル」、そしてスカラベの顔をした創造神は「ケプリ」と表わすのが一般的になっている。  現代日本では「ふんころがし」でも、古代エジプトでは太陽神スカラベであるから、当然その姿は支配階級の装飾品に使われることになる。指輪、胸飾り、置物……そして中でも重要な位置を占めるのが心臓スカラベだった。  これは王が死んだあと、死者の審判を受けるさいに、心臓が不利なことをしないように、その動きを封じるためにミイラの胸に置かれるもので、表側から見れば丸みを帯びた大きな甲虫をかたどっており、その腹部に相当する裏側は平らで『死者の書』第三十章が刻まれている。いわばこれは死者の護符ともいえる重要なアイテムで、たんなる埋葬品以上の意味合いがあった。  そのレプリカを、沖美保子がカイロの市場で見つけて買い求めたのだ。その段階で、小檜山努は映画の題名を『心臓スカラベ』にしようと言いだし、その語感の持つ無気味な響きに、全員が賛意を表明した。そして監督を務める天田芳樹は、ルクソールまでドライブしていく道すがら、作品における心臓スカラベの位置づけについて小檜山とともにアイデアを語り合ってきた。  そのレプリカが芳樹の手によって、ミイラ姿の岡崎拓哉の胸にそっと載せられた。  レプリカは大人の手のひらよりやや小さめで、和菓子でよく見かける小判型の饅頭《まんじゆう》に似た形態をしていた。背中側は全体的に青みがかった色合いをしており、頭や羽などがしっかり刻まれ、見た目にも甲虫そのものだった。置いたときに安定させるため、裏側が真っ平らになっているところも和菓子の小判型饅頭に似ていたが、その裏面には、日本の学生たちにはまったく解読できないヒエログリフの文字が並んでいた。バザールの売り子がカタコトの英語と、小檜山にもわかる単純なアラビア語を交えて説明したところによれば、本物の心臓スカラベと同じように『死者の書』第三十章が刻印されているのだという。  そして、芳樹がスカラベをしきたりどおり心臓の真上に置くと、青い甲虫がミイラの胸に留まっているように見えた。それは、拓哉の周りを囲む三本のロウソクの炎によって、地の青にオレンジ色がミックスされた光沢を放っていた。  レプリカはたいした重さではなかったし、ジャージーの上に包帯を何重にも巻きつけられているため、拓哉にはスカラベの置物が自分の胸に載せられたという具体的な感触はなかった。 「ちゃんと息できてるのかな」  ひとりごとのように、兄の雅也がつぶやいている。その声がぐんと近くなったことで、拓哉は兄が自分のそばにひざまずいたことを感じ取った。 「少し鼻のへんの包帯を緩めてあげたほうがいいんじゃないのかな」  その言葉は拓哉に直接向けられたものではなく、ほかのふたりをふり返りながら同意を求めている感じで発せられたため、少し遠ざかって聞こえた。 「そのままでもだいじょうぶだろ。なあ、進くん」  と、芳樹が他人事のような気軽さで言う。 「あんまり包帯を緩めると見た目にまずい。この状況もずっとビデオ回して撮ってるってことを忘れるなよ。鼻のあたりで包帯がゆるんでいたら、いかにも役者が楽をするためだって観客に見抜かれちゃう。いままで平気だったんだから、このままでいいよな」  拓哉は、またウーとうめいた。  呼吸自体は問題なかった。口では満足に息ができなかったが、鼻での呼吸に支障はない。包帯が幾重にも巻かれていたが、その布地を通して入ってくる空気の抵抗感はマスクをかけたときと同じ程度である。それよりもいまの拓哉にとって問題なのは、かゆみに襲われたときだった。身動きできない状況で全身がかゆくなったら、それは拷問である。さきほどはすぐ収まったからいいが、あれこれ考えると、また同じ状況になりかねない。だから拓哉としては、心臓スカラベを定位置に置いたら、さっさと三人はこの場を立ち去ってほしかった。そして精神統一——といえば聞こえはいいが、よけいな邪念に襲われないためにも、眠りについてしまいたかった。どうせ身動きできないなら、ビデオに撮られていても眠っていることなどわかるわけがない。芳樹は、王家の谷で夜通しビデオを回せば、心霊映像が撮れるかもしれないと真顔で言っていたが、拓哉はそのへんは醒《さ》めていた。また、醒めていなければ、こんな場所で単独の徹夜などできるはずもなかった。出演者を実際に怖がらせようというプランは、拓哉にはあまり通用しなかった。とにかく彼は、残りの四時間を眠って過ごしたいという気持ちになっていたのだ。  だが、ほうっておいてほしいと思う拓哉の気持ちとは裏腹に、兄の雅也が顔に手をかけてきた。 「少しだけ楽にしてあげよう。これじゃ、あまりに窮屈そうだ」  芳樹の言葉に逆らうように、鼻のあたりの包帯の間に兄の指が差し込まれてきた。その指は、重なった包帯と包帯の間にスペースを作るようにスーッと滑っていっただけで、またすぐに引き抜かれてしまったが、それでも前に較べるといくぶん息がしやすくなった気はした。 「じゃ、ミネラルウォーターね。ちょっとでも飲んでおいたほうがいいわよ」  入れ替わりにガールフレンドの美保子の声が近くに聞こえた。こんどは彼女がそばに座ったようである。  拓哉は、口を開けられないので水は飲めないと言うつもりだったが、いかなる意思もすべて「ウー」という単純なうめき声で表現するよりなかった。自分は犬や猫よりも単純な動物になった気分だったが、美保子はとりあえずそれに拒絶の響きを感じ取ってくれたようではあった。 「要らないの?」  美保子がきいてきたので、また拓哉はうめき声で応えた。 「ウー」 「要らないんだって」  と、美保子は、そばにいる雅也に向かって語りかけているように、拓哉には思えた。 「いや、水はちゃんと飲ませておいたほうがいい。この乾燥した場所で五時間も水分なしだと厳しいよ」  と、雅也が答える。  こっちがしゃべれないから、人が水を飲むか飲まないかを、ふたりで勝手に決めようとしている。もしかすると口の利けなくなった病人というのは、こんな思いをさせられるのかな、と拓哉は思った。 「このボトル、ストローがついているから、包帯の上からでも飲めると思うけど」  美保子のその言葉は、ふたたび拓哉に向けられていた。彼女がどんなボトルを持っているか、拓哉には直接見えなくてもわかっていた。ハンバーガーショップにあるケチャップの容器に似た柔らかい材質のボトルの先端に、自由に角度を変えられるストローがついていた。陸上の選手が走りながら給水するときにも使えるボトルだ。  その先端が間接的に口に押し当てられた。そして、いま兄の雅也が指を間に差し入れたところより少し下の、ちょうど口を覆っている包帯の窮屈な隙間《すきま》に、ストローの先が割り込んで入ってきた。だが、その先端は直接口には触れず、布と布の間に挟まったままだった。その状態で、美保子はボトルの胴体をギュッと押して中の水を押し出した。 「ちょっとだけでも口を湿しておいたほうがいいわ」  美保子の言葉とともに、口の周りにジュワッという感じで冷たい感触が拡がった。  口は開けられなかったが、懸命に唇を尖《とが》らせて吸い込むと、ガーゼの包帯に染み込んだ水分が口の中に入り込んできた。たしかに美保子が言ったとおり、その潤いはありがたかった。ガーゼ越しの水は決してうまいとは言えなかったが、極端に湿度の低い空気のため、拓哉の口の中は知らぬまに渇き切っていたのだ。  彼はまるで母親の乳を吸う赤ん坊のように、チューチューと音を立てて——というよりも、実際にはズーズーという音になったが——必死になって水を吸い込んだ。 「ほーらね、やっぱり喉《のど》が渇いていたでしょ」  笑いながら語りかける美保子の口調も、どこか子供に対する母親、あるいはペットの子犬に対する飼い主のようになっていた。  そのとき、水を吸い込みながら拓哉は、ふと違和感のようなものを覚えた。肉体的な違和感ではない。言葉がしゃべれない自分をよそに三人が短い会話を交わしているのを聞いているうちに、彼らのやりとりに、何かおかしいものがあると感じはじめていたのだ。いわば会話の中の「異物感」である。得体の知れない不純物が、彼らの言葉の中に混じっていることを、拓哉の直感が嗅《か》ぎ取っていた。  だが、何がどうおかしいのかよくわからない。三人とも、しゃべっていることはきわめて平凡な内容である。にもかかわらず、拓哉はそこに妙なものを感じているのだ。  では、誰のセリフに違和感、異物感を覚えているのか、それが自分でもはっきりしなかった。兄の言葉なのか、恋人の言葉なのか、それとも一年先輩の天田の言葉なのか、その限定ができない。 「よし、それじゃ、そろそろおれたちは行くよ」  説明のつかない感覚を分析しようとしている拓哉の頭の上で、芳樹が声をかけた。  それと同時に、包帯の間に差し込まれていたストローが引き抜かれた。 「それじゃね、残り四時間ですよ〜」  と、間延びした兄の声が上のほうでする。 (何かがヘンだ) 「がんばってね」  美保子の声がスッと上方に遠のいたことで、彼女が立ち上がったことを拓哉は理解した。そして、頭上でチュルッと音がしたのは、たぶん美保子も同じボトルから水を飲んだのだろうと思った。 (どうしてもヘンだ。……でも、何が?) 「けっこう風が出てきたなあ。ロウソクの火が消えなきゃいいが」  芳樹がつぶやいていた。 「でも、きれいな星空だ。ほんとに空気が澄んでるんだなあ……それじゃ、進くん、また四時間後に」  芳樹が別れの一言を告げた。 (おかしいぞ、おかしいぞ。やっぱりおかしいぞ)  拓哉の頭がフル回転する。  三人のやりとりのどこに自分は異常を感じ取っているのか。拓哉はそれを必死に探ろうとしていた。なぜ必死になっているかといえば、彼の本能が身に差し迫った危険を察知していたからだった。死の色を「黒」で象徴的に表わすならば、いま自分の真上にどす黒い影が覆い被《かぶ》さってきた感じだった。 (死? なぜおれは死の予感に怯《おび》えているんだ。みんな仲間なのに)  拓哉は戸惑った。  だが、黒の予感が消えない。  すでに、兄と美保子はこの場を離れるために歩き出していることが、その足音でわかった。それにつづいて、天田芳樹の足音も小さくなってゆく。王家の谷の大地にミイラ姿で横たわる拓哉は、ふたたびひとりきりになろうとしていた。  しかし、たったいま放たれた天田芳樹の「また四時間後に」というそっけない一声が、まさかこの世で最後に聞く人間の言葉になろうとは、さすがの拓哉も想像できなかった。自分の人生にとって「四時間後」がもう存在しないとは。それどころか「四分後」さえこないとは……。  もしも、このあとすぐに自分が死ぬことになるとわかっていたならば、せめて恋人の美保子とは、もっといろいろなことを語り合いたかったはずである。だが、そんな後悔が駆けめぐるまもなく、いきなり、死というものが岡崎拓哉に襲いかかってきた。飲まされた水に毒が入っていたのではない。もっと別の異変が発生したのだ。 (やめろ、やめろ、その手を放せ!)  手——拓哉は、突然、目に見えない手に押さえつけられていた。あまりにも唐突に訪れた異常事態に、彼は激しいパニックに陥った。  叫ぼうとした。だが、できない。  もがこうとした。それもできない。  焦りながら、拓哉は心の中で叫んだ。 (その手をどかすんだ! たのむ、たのむ、手を放せ。苦しい……おねがいだ、助けてくれ)  最悪だった。声を出すことも手足を動かすこともできないまま、拓哉は死の世界へ引きずり込まれようとしていた。それも、なんという皮肉なことか、全身を包帯で巻かれたミイラの姿でだ。 (ウソだろ、こんな死に方をするなんて、ウソだろ)  さっきまでそばにいた三人の足音は、もうすっかり聞こえなくなっている。拓哉にとって唯一できる行為であるうめき声を出しても、三人の耳に届くとは思えなかった。  苦しい。たとえようもないくらいひどい苦痛だった。しかも、それは彼を一瞬にして絶命させるほど強い力ではなく。じわじわと、まるで苦しみを長引かせることが最高の手段であるかのように、ゆっくりと襲ってくる。  拷問だった。これ以上ない拷問だった。  どうせ死ぬなら、頭をピストルで撃ち抜かれるとか、刀で首を斬《き》り落とされるとか、爆弾で粉々に吹っ飛ばされるほうがよっぽどマシだった。しかし、相手は楽な死に方を拓哉に許してくれなかった。 (なぜだ……なぜ、ぼくは殺されなきゃいけないんだ)  拓哉の頭に最後によぎった疑問はそれだった。  誰にこんなむごい仕打ちをされているのかということより、なぜ自分がこんな目に遭わせられねばならないのか、それがわからなかった。  と、そのとき——  突然、謎《なぞ》が解けた。さきほど感じていた三人の会話の中に混ざり込んでいた正体不明の異物感、その実体がわかったのだ。そして、それといま自分が置かれた状況との関連も。  だが、すべては遅すぎた。岡崎拓哉は、悪魔の「手」に対して何ひとつ抵抗できないまま、ついに意識を失った。  ただ、この期に及んでは、意識を失うことが彼にとって最大の救いだっただろう。もう苦痛を味わわなくて済むのだから。そして拓哉は、三千数百年前のファラオたちが眠る異国の谷で、その場に最もふさわしい装いをもって死への旅路についた。  その様子を見守っていたのは、満天の星空に浮かぶ満月と、そして淡々とすべてを記録しつづけていた一台のビデオカメラだった。 [#改ページ]    2 朝比奈耕作、エジプトへ[#「2 朝比奈耕作、エジプトへ」はゴシック体] [#地付き]——三年後・一月  [#「三年後・一月  」はゴシック体]  成田からパリへ飛ぶエールフランス航空のビジネスクラス席では、すでに機内食のディナーも終わり、キャビンの明かりは消されていた。  昼間に日本を発って、地球の自転とは反対方向に飛びながらパリに夕方五時ごろ着くスケジュールだったから、飛行機の外はずっと日が暮れない。ヨーロッパの上空へきてようやく暗くなる程度だ。しかし、実際のフライト時間は十二時間を超すので、乗客に睡眠を与えるため、昼下がりのディナーが終わったあとはすべての窓の日除けが下ろされ、明かりも消されて機内は暗くなった。  前方のスクリーンではハリウッド映画が上映されていたが、たいして面白くない作品なので、ヘッドホンをかけてそれに見入っている客はあまりいなかった。音楽プログラムにチャンネルを合わせて静かにリキュールなど傾けている者もいたが、多くはジェット機のエンジン音をBGMにしながら、時差調整のための眠りにつきはじめていた。  だが、朝比奈耕作は頭上の読書灯を点け、折り畳み式のテーブルを引き出して資料を広げ、「事故」の概要を整理しながらメモに書き直す作業に没頭していた。  ビジネスクラスは空いていたし、静寂を破るような子供連れの客もおらず、おかげで作業に神経を集中できる環境にはあった。だが朝比奈は、隣に座る女性のほうが気になって、ついそちらに目をやってしまう。  彼は通路側の席に座っていたが、窓側に座る若い女性は、フルリクライニングできるシートなのに、水平飛行に移ってからも背をまっすぐ立てたまま一度たりとも倒そうとせず、日除けの下からわずかに洩《も》れる高度一万メートルの日射しが形作る白い枠どりをじっと眺めていた。  彼女は機内食にもほとんど口をつけていなかった。朝比奈はビジネスクラスの優雅なディナーをしっかり楽しんだが、彼女はコーヒーを一杯飲んだだけである。そして、ずっと物思いにふけった顔で何も見えない窓を見つめている。眠るでもなく、長い間合いをおいたまばたきを繰り返すだけだったが、長いまつげの動きが美しかった。 (ほんとに横顔のきれいな子だな)  こちらの席の明かりを半分受けた彼女の顔をときどき見やりながら、朝比奈はさっきからそんなことに感心していた。  彼女は正面から見るとちょっと垂れ目で愛嬌《あいきよう》のある顔立ちなのだが、不思議なことに横から見るとガラッとイメージが変わって、理想的なまでに整った正統派美人の印象になった。いつまでも飽きずに眺めていたくなる美術品のような横顔だった。  彼女は偶然朝比奈の隣に乗り合わせたわけではない。彼とともに、これから遥か中東のエジプトへと向かう連れである。沖美保子——北陸の小京都・金沢の女子大に通う三年生。  女子大生と、それも美しくてチャーミングな子とふたりきりで海外旅行へ出かけると朝比奈が告げたときの、港書房の編集者・高木洋介の驚きようといったらなかった。 「朝比奈さん、そういうずるいことをしていいと思っているんですか。ただでさえ少ない女性ファンが減りますよ。そもそもあなたには、ファンも公認の草薙葉子《くさなぎようこ》さんという婚約者がいるんでしょ。それでいながら女子大生と海外不倫旅行だなんて、あまりにも不謹慎。朝比奈耕作のイメージ暴落ですよ」  と、はじめは高木もぎゃあぎゃあわめき立てていたが、相手の女性の父親には、じつは高木も仕事上で世話になっていたことがあるとわかり、しかもふたりの旅行の真の目的を聞かされると、こんどは興味津々という顔つきに変わった。  金沢市内の私立女子大に通う沖美保子は、三年前のいまごろは東京の大学で映画製作同好会に所属して楽しいキャンパスライフを送っていた。だが、彼女が一年生の一月、エジプトのルクソールまで仲間五人で出かけたロケ旅行のさなかに、当時恋人であった一学年上の岡崎拓哉が撮影中に窒息死するという悲劇が発生した。  一時は彼女を含めた四人の仲間に殺人の疑いまでがかかる騒ぎに発展したが、具体的な犯罪の証拠はあがらず、けっきょくエジプトの司法当局は、映画撮影のためにミイラに扮装《ふんそう》したさい、その包帯の巻き方がきつかったために呼吸不全に陥った事故とみなして一同を解放した。  しかし拓哉の遺体とともに帰国した彼らの間には、なんともいえぬ気まずい空気が流れた。とりわけミイラ役を演じる拓哉の顔に包帯を直接巻いた監督の天田芳樹は、事故の直接責任をひとりかぶるような形に追い込まれ、映画製作同好会のリーダーという立場でありながら、真っ先に辞意を表明してサークルから抜けていった。  そしてほかの三人も次々と辞めていき、エジプトロケに参加した主要メンバーを欠いては存続不能となって同好会は解散。また美保子は「つらい思い出をすべて忘れ去るために」と周囲に告げて東京の大学を中退、実家のある金沢へ戻って、大学も地元の私立に入り直した。  それから三年の月日が流れた。本来ならば、美保子はそろそろ卒業を間近に控える大学四年生になっているところだが、別の大学に一から入り直したために一年遅れて、まだ三年生だった。一方、雅也、芳樹、小檜山の三人は、二年前に社会人となっているはずだったが、美保子はその進路も知らなかった。彼らとはまったく音信不通の状態となっており、東京の大学にいたとき使っていたメールアドレスも変えたから、ネットでの交流も消滅していた。  ところが去年の暮れになって、美保子にふたたび過去を思い出させる出来事が起きた。死んだ拓哉の兄・岡崎雅也が、金沢の実家に戻った美保子を突然たずねてきたのだ。都内の信販会社に勤めているという雅也は、伸ばしていた長髪を短く整えて、スーツにネクタイを締めたフォーマルな装いでやってきた。そして、これまで弟の喪に服する意味もあって切り出せなかったけれど、と前置きをしたのち、美保子のことをどうしても忘れられないこと、できるならば結婚を前提とした交際をはじめたいことなどを、思いつめた顔で一息に打ち明けてきた。  美保子は、大学に入学して映画製作同好会に入った当時から、岡崎兄弟の双方から思われていることを察知していた。それだけではない、小檜山努も天田芳樹も同じだった。エジプトロケに参加した男四人全員が、美保子に対する熱い思いを抱いていたのだ。そんな中で、美保子は雅也の弟である拓哉を恋人として選び、ほかの三人の男も、やむをえずその事実を容認していたという状況だった。ルクソールでの悲劇は、そうした五人の人間模様を背景にして起きたのだ。  当時のキャンパスでは、拓哉が死んだのはミイラの呪《のろ》いだ、連中は王家の谷の恐ろしさを知らなかったからだ、などと真顔でファラオの祟《たた》りを語る者もいたが、むしろそうしたオカルト怨霊説《おんりようせつ》は気楽な噂《うわさ》の部類に入った。それよりも、美保子を取り巻く男たちの関係から、さまざまな噂を立てられるほうが四人にはつらいものがあった。とくに美保子にとっては……。  だから彼女は、せっかく入った大学をやめて実家へ戻ったのだ。そして、忌まわしい出来事をできるだけ早く過去のものとしたいと願っていたのに、突然の雅也の再登場は美保子にとって、かなり困惑させられるものだった。  そこで彼女は彼女で、雅也にとってはおそらく予想もしていなかったと思われる行動に出た。推理作家の朝比奈耕作に三年前の「事故」の真相を調査してもらうため、いっしょにエジプトへ旅立つことにしたのだ。ただし、それは美保子自身の発案ではなく、彼女の父親の指示だった。  美保子の父・沖|清之《きよゆき》は、金沢市で郊外型のビデオレンタル併設書店を経営しており、個人的に朝比奈耕作の熱心なファンだった。いまから四年前、出版点数も少なくベストセラー作家とは決して言い難い朝比奈を金沢まで招き、店頭サイン会を催してくれたのも、沖の個人的な思い入れが強かったからで、朝比奈にとってはありがたい理解者だった。そのサイン会では、港書房の高木洋介も担当編集者として手伝い、書店主である沖清之とも名刺交換をしていたのだ。ただし、娘の美保子はまだ高校生で朝比奈とも高木とも当時は直接顔を合わすこともなかった。  その沖が、雅也の再接近に関して娘に忠告したのは「雅也君がそういう申し出をしてきた以上、三年前の出来事の真相をはっきりさせておくべきだ」という点だった。  あの王家の谷での悲劇に関して、美保子の父親は、当事者だった娘には言いづらいひとつの疑惑を抱いていた。それは、岡崎拓哉の窒息死事故は、兄の雅也の謀略ではないか、という疑いである。  一歳違いの雅也と拓哉が非常に仲の良い兄弟であったことは、沖は娘からも聞かされていた。だが、ただ一点においてのみ、彼らには争いがあった。ほかでもない、美保子のことだった。もちろん、兄弟間で美保子を奪い合うことがあったにしても、ケンカにはなっても、それが殺人に結びつくという展開は普通は考えにくい。  しかし、娘から見せられた一本のビデオテープが、父親に大きな不安を抱かせることになった。  それはミイラ姿に扮した拓哉が、深夜の王家の谷にひとり取り残されている様子を延々五時間にわたって撮影した映像だった。演技も何もそこにはなかった。荒涼とした砂漠地帯の一角に「ミイラ」が寝かされている光景を、三本のロウソクの明かりを頼りに、ただひたすら写しているだけだった。  テープのムダのようにも思えたが、美保子の説明によると、もしかすると本当に心霊ビデオが撮れるかもしれないという期待を込めて回していたのだという。いかにもオカルト好きの学生らしい発想だったが、そこには幽霊などが映っていなかった代わりに、ミイラに対して怪しげな行動をとる雅也の姿が記録されていたのだ。  事故直後、エジプトの警察も内容を吟味したというビデオを娘から見せられた沖は、そこに疑惑のワンショットを見出し、何かのときのためにと、長尺のテープをまるごとダビングしておいた。  しかし月日が経つにつれて、沖は、もうこのテープは消去してしまったほうがいいと思いはじめていた。たとえそこに「事故」が「事件」であったという証拠が映っていたとしても、その過去から娘が遠ざかろうと努力しているなら、あえて真相を追い求める必要もあるまいと考えたのだ。四人がそれぞれ社会に出て、別々の道を歩みはじめれば、時がすべてを忘れさせるはずだから、と……。  ところが三年経って、悲劇の記憶が徐々に薄れかかってきたころ、まさに沖が疑惑を抱いていた当の雅也が、いきなり結婚を前提とした交際を美保子に申し込んできたのだ。美保子にしても父にしても、忘却の彼方に置き去るつもりだった出来事を、いきなり目の前にグイと引っぱってこられた気分だった。  雅也のかしこまったアプローチの仕方も、沖は気になっていた。  すでに五十の大台に乗っている沖は、いまや自分には十代、二十代の感性は理解できなくなっていると思っていた。だから若者向きのビデオや書籍の仕入れなどは、ぜんぶ若いスタッフの判断を信じて任せていた。それが結果的に書店経営を成功に導いていたのだが、男女のつきあい方ひとつとってみても、若い世代のやることは完全に自分の感覚を超えていると思っていた。しかし、そんな旧人類を自任する沖でさえ古めかしいと感じるような「結婚を前提とした交際の申し込み」を、岡崎雅也は娘に対してしてきたのだ。  沖自身は、金沢までやってきた雅也と直接会ったわけではなかったが、美保子の話を聞くかぎりでは、チャンスさえあれば両親にまで許可を求めてきそうな、そんな気負い込んだ様子が感じられた。その「いまどきの若者らしからぬ」、妙に形式張った交際申し込みの態度も引っかかるものがあった。 (もしも、雅之が美保子を奪いたいがために自分の弟を殺していたら——そして、もうほとぼりが冷めたころだからいいだろうと美保子に近づいてきたのだったら)  沖清之がもっとも懸念しているのは、そこだった。 (殺人者と知らずに、美保子があの男と結婚したらどうなるんだ)  父親は焦った。娘の気持ちをはっきり確かめるのが恐かったから、雅也のことをどう思っているのか、まだきいてはいない。しかし、かつての恋人の兄であるからには、娘の心を動かす共通項を持っているのではないかと、父は恐れていた。顔立ちは似ているし、背丈も拓哉ほど高くはないが、雅也もなかなかの長身だ。最初は唐突なプロポーズに戸惑っていても、やがて娘はそこに拓哉の面影をみて、失ったものへの代償としての恋に発展させるかもしれないという気がした。 (美保子の気持ちが傾いてからでは遅い)  そう思った沖は、迷った末に朝比奈耕作の助けを借りることに決めた。  沖は、朝比奈がただの推理作家ではなく、現実に起きた難解な事件を数多く解決に導いた実績を持つ「名探偵」でもあることを知っていた。だから、彼に三年前の出来事に関する真相解明の協力を仰ごうと考えたのだ。そして父は娘にはっきりと告げることにした。自分は雅也を疑っている、と。 「おまえが雅也君とつきあうつきあわないは別にして、彼が近づいてきた以上は、お父さんの気持ちの中にある迷いをきちんと吹っ切っておきたいんだ」  そう言って、沖は問題のビデオテープのコピーを改めて娘に見せながら、疑惑の部分を具体的に示した。そして、この中途半端な気持ちをすっきりさせるには、信頼する朝比奈さんに調査を頼むしかない、と言った。  沖は娘にこの案を反対されるかと思っていたが、美保子はあんがいあっさりと父の提案を受け容れた。そして朝比奈に正式な依頼がきたのだ。 「朝比奈さん、どうか美保子といっしょにエジプトへ行っていただけませんか。あの子に当時の様子を現地で詳しく説明させますので、三年前の王家の谷で、あの晩何が起きたのか——それとも何も起きなかったのか、その判断をしていただきたいのです。朝比奈さんが出してくださった結論に対しては、私は全幅の信頼を置きますから」  そして沖は、こうつけ加えた。 「私としては、自分の疑惑が邪推にすぎず、あれが単純な事故であったと朝比奈さんに判断していただける結末になることを祈っております。めでたくそうなりましたら、今回の旅の当初の目的はお忘れになって。ぜひエジプトを舞台にしたミステリーを書いてください。そうしたら、うちの店でサイン会をまたやりましょう」  最後は笑顔になったが、その笑顔の陰に不安が見え隠れしているのを朝比奈はもちろん見逃さなかった。  ともかく、沖清之は朝比奈のために万全の旅支度を調えてくれていた。長い道中になるからと、南回りで行くエジプト航空ではなく、エールフランスでいったんパリに飛ぶルートが選ばれた。そして同地で二泊するという余裕の日程を組んでくれたのも、せっかくパリに行くのだから、たんなる乗り継ぎではなく、小説の舞台として取材ができればという、いたれりつくせりの配慮だった。そのあと三日目の夕方、パリ時間の午後四時に出るルクソール行きのエジプト航空に乗って、現地に向かうスケジュールである。  フライトの全行程はビジネスクラスになっており、パリのホテルも、ルクソールのホテルも一流どころが押さえてあった。出発前、成田空港まで見送りに行った港書房の高木洋介は、しきりにこの大名旅行をうらやましがり、なおかつ空港で実物の沖美保子と出会って、話に聞いていた以上の彼女の美貌《びぼう》に目を見張り、陰で朝比奈のお尻《しり》をパンパンと何度も叩《たた》いた。 「ちょっと、ちょっと、調査旅行のつもりが、まさかこのままハネムーンになっちゃうんじゃないでしょうね」 「う〜ん、どうかなあ」  朝比奈は、高木をじらすように、あいまいな返事をした。 「ぼくは氷室想介《ひむろそうすけ》先生みたいにストイックじゃないからねー」  同じく「名探偵」として名を馳《は》せている精神分析医《セイコセラピスト》を引き合いに出しながら、朝比奈はなおも思わせぶりな発言をして高木を刺激した。 「もしかしたら、旅の空で間違いを犯しちゃうかもしれない」 「このー!」  高木は、ついに推理作家のお尻を思いきりひっぱたいたが、朝比奈はカフェオレ色に染めた髪の毛をこともなげにかきあげて、にっこり笑うばかりであった。  だが——  朝比奈の本心は決して浮かれた気分ではなかった。すでに出発前に問題のビデオテープをじっくり検証していたが、彼もまた美保子の父と同じように、そこに大きな疑惑を抱かざるをえなかった。ただし、沖清之が抱いた疑惑の奥に、さらにもうひとつの逆転劇がある、という直感が働いていた。まだそれは明確な論理の形をとって説明できるものではなかったが、一種の「プロとしての読み」だった。  ゴルフのグリーンにのせたボールをカップに沈めようとするとき、プロとアマでは技術のほかに、経験からきたラインの読みが異なるように、あるいは将棋の戦いで盤面をひとめ見たときに、プロ棋士とアマチュア有段者とでは読みの深みがまったく異なるように、数々の難事件と対面してきた朝比奈耕作のキャリアというものが、美保子の父親が抱いた直感的疑惑をはるかに上回る精度で、ビデオの裏に隠された「何か」を捉えたのだ。  それは奇しくも、死の直前の岡崎拓哉が、視野を遮《さえぎ》られた状態で仲間たちの会話の中に覚えた異物感と同じものだった。つまり映像としての違和感ではなく、音声としての違和感である。  では、それは具体的に何なのか……。  いま機上の人となった朝比奈は、美保子の整った横顔から目を離し、これまで沖清之や美保子から与えられた説明をもとに、自分で整理し直した手元のメモに視線を移した。飛行機に乗っているあいだに、美保子にもいろいろたずねておきたいことがあったが、その前にもういちど事件の概要を頭に叩《たた》き込んでおきたかった。  そのメモ書きは、映画製作同好会のメンバー一覧からはじまっていた。 【五人の大学生(三年前の一月当時)】[#「【五人の大学生(三年前の一月当時)】」はゴシック体] [#ここから改行天付き、折り返して8字下げ] 岡崎 拓哉(20)ミイラ姿で死んだ学生。美保子の恋人。会計担当および出演。二年生。 岡崎 雅也(21)拓哉の兄。撮影機材担当および出演。三年生。 沖 美保子(19)拓哉の恋人。衣裳《いしよう》担当および出演。一年生。 天田 芳樹(21)同好会のリーダー。作品の監督を担当。三年生 小檜山 努(24)エジプト経験豊富な最年長者。脚本、現地ガイド、運転担当。三年生。 [#ここで字下げ終わり] 【日本出発から事件発生まで】[#「【日本出発から事件発生まで】」はゴシック体] [#ここから改行天付き、折り返して5字下げ] ◎土曜日・夕刻、五人そろって映画撮影のため成田から出発。 ◎日曜日・早朝、カイロ着。ロケバスとして使用するルーフラック付きのワンボックスカーをカイロ市内でレンタルする。小檜山の運転で市内観光。カイロ市内泊。エコノミーな安宿。 ◎月曜日・小檜山の運転で、カイロ郊外にあるギザのピラミッドを観光。夜、カイロ市内に戻り、前日と同じ宿に泊まる。 ◎火曜日・未明に宿をチェックアウト。レンタカーでカイロを出発する。ナイル川東岸に沿って北上、午後二時半ごろルクソール市内に入る。 [#ここから4字下げ] ・現地で自転車を二台借り、それをロケバスのルーフラックに縛りつけ、地元住民が利用する旧式のフェリーボートで対岸へ渡る。 ・午後五時まで王家の谷でツタンカーメンの墓などを見学後、ルクソール橋を渡って東岸に戻り、市内で夕食。 ・午後十時ごろ、小檜山運転のロケバスで再度橋を渡って西岸の王家の谷へ。 ・午後十一時ごろ、車から降りて徒歩十五分ほどの、公開エリアからはずれた王家の谷西方の岩陰で、「進」役を演じる岡崎拓哉をミイラに仕立てる作業にとりかかる。進の身体に包帯を巻く作業を行なったのは監督の天田芳樹。 ・劇中では、「進」は本物のミイラの布をまとい、夜通しで古代のファラオとの心霊交信を試みる設定になっていたが、包帯をほどいたときに発狂している展開に迫力を持たせるため、演じる拓哉にも暗闇《くらやみ》に放置される恐怖心を実体験してもらおうと、その場に五時間放置されることになる。 ・ミイラの扮装《ふんそう》準備が整ったところで、拓哉をひとり残し、心霊現象がほんとうに起きるかもしれないとの期待から、近くにビデオカメラを設置し、太めのロウソク三本を燃やして照明代わりとしてノンストップの撮影を開始。四人はいったんその場を離れる。 ・岡崎雅也と沖美保子は、雅也運転のロケバスでナイル西岸の夜景を撮りに、小檜山と天田芳樹はそれぞれ自転車をこいで東岸カルナック神殿周辺の夜景を撮影にと、その場で二手に分かれて行動を開始。 ・しばらくして、演出用の小道具である『心臓スカラベ』をミイラの胸に置き忘れたことを思い出した芳樹が、小檜山を東岸に残したまま、ひとり自転車でルクソール橋を渡ってまた西岸へ戻り、トランシーバーで雅也たちの車を呼び出して合流。三人で車に乗って王家の谷へ向かう。 [#ここから改行天付き、折り返して5字下げ] ◎水曜日・午前零時ごろ、雅也、美保子、芳樹の三人が王家の谷に到着。ミイラ姿で残した拓哉のところに戻る。 [#ここから4字下げ] ・芳樹が拓哉の胸に心臓スカラベの置物を載せ、雅也が呼吸が苦しくないかと問いかけ、美保子がストローで拓哉に水を与える。三人は交互に拓哉に話しかけたが、彼はきつく巻いた包帯のせいで自由にしゃべれず、ウー、ウーといううめき声で返事をしていた。 ・そして三人はその場を去って、車を停めた場所まで歩いてきたが、そのとき雅也が突然もういちど戻ろうと言いだした。いぶかしがる美保子と芳樹に対し、雅也は、たとえイミテーションであっても、死者の書を刻んだ心臓スカラベを彼の胸にまともに載せておくのはイヤな予感がする。本物の死体になってしまう気がして不安だから、せめてあれは裏返しに置きたいと主張。すなわち、平らなスカラベの腹部に刻まれた死者の書を、ミイラの胸にじかにくっつけるのではなく、腹を上向きにして、背中を下向きに——スカラベがあおむけにひっくり返った格好に置き直そうと言う。 ・その置き方では、映像的に据わりが悪いと芳樹はいったんは反対したが、雅也が本気で迷信めいた不安を感じているふしがあったので、けっきょく芳樹もその案に納得し、三人で拓哉のもとへ戻ることにした。 ・だが、横たわるミイラの十メートルほど手前まできたところで、急に雅也が走り出した。そしてひとりでそばへ駆け寄ると、すばやくスカラベを裏返しにして、すぐにまたUターンして美保子たちのところへ駆け戻ってきた。彼がミイラのそばにいたのは、わずか数秒だった。 ・雅也のその異様な急ぎ方に芳樹と美保子は驚いたが、けっきょくそれで用が済んだために、あとのふたりはそれ以上に近づく必要もなくなり、十メートル離れたところから、裏返しのスカラベを胸に載せたミイラに向かって、「じゃ、がんばって」と呼びかけた。今回は返事がなかったが、とくにそれ以上は声もかけずに、こんどこそ三人はその場を完全に離れた。 ・午前四時、小檜山も合流してふたたび現場を訪れる。そのときには、雅也と美保子は劇中の役柄——「進」の恋人「美代子」と、「進」の親友「正樹」の服装に着替えて、いよいよ包帯を解くシーンの撮影に映った。 ・五時間回しっぱなしのビデオはそのままにして、別の手持ちカメラを監督の芳樹が構え、動感のある映像を撮ろうと、美保子たちといっしょにミイラに近づいてゆく。小檜山はとくに何をするでもなく、そばで撮影の様子を見守っていた。 ・そして「正樹」役の雅也が包帯を切るための小さなハサミを手にしながら、近寄って「進」にだいじょうぶかと呼びかける。雅也の声は演技なのか小刻みに震えていた。それに対する返事はない。これは打ち合わせどおりの展開だった。「美代子」役の美保子が「ねえ、進。もう実験はやめて元に戻って」と身体を揺する。ここも予定どおりの進行だったが、そのとき美保子は、包帯に包まれた「進」の感触がおかしなことに気づく。それでも演技はつづけられ、「進」の返事がないことをいぶかしく思った「正樹」がハサミで顔のあたりの包帯を切り裂く。 ・そこから現れたのは、すでに息絶えた岡崎拓哉の顔だった。 ・固定カメラと手持ちのビデオの双方に、美保子の悲鳴と雅也の|驚愕の《きようがく》叫びが大音量で記録される。 [#ここで字下げ終わり] 【死因と死亡時刻】[#「【死因と死亡時刻】」はゴシック体]  エジプト司法当局による検視の結果、岡崎拓哉の死因は窒息死。死亡推定時刻は水曜日の午前零時から午前一時前後。 【固定カメラの映像と四人のアリバイ】[#「【固定カメラの映像と四人のアリバイ】」はゴシック体]  岩陰に置かれた固定ビデオカメラは、現地時刻表示のタイムカウンターを映像上に記録しており、それによれば撮影開始は火曜日の午後十一時〇七分十三秒。それから悲劇の発見まで延々、一度も停止することなく記録はつづけられた。  編集でテープをつなぎあわせたりカットした形跡はなく、それはタイムカウンターの表示からも、ミイラ役の岡崎拓哉の周囲に置かれたロウソクの状況からも確かである。  基本的には横たわるミイラだけが映っているその長時間映像記録に、他の人間が割り込んできたのは三回。  一度目は、水曜日に日付が変わった午前〇時〇三分十二秒から〇時〇七分二十九秒までの約四分間。これは心臓スカラベを置きにきた天田芳樹、岡崎雅也、沖美保子の三人で、このときは、うめき声ながらも拓哉の反応が確認できている。  二度目は、午前〇時十七分三十五秒から同四十三秒までのわずか八秒間。超広角レンズのカメラの後ろからバッとアングルの中に入ってきた雅也は、一瞬にしてミイラの胸に置かれたスカラベを裏向きにひっくり返し、また脱兎《だつと》のごとくカメラ側のほうへ駆け戻って視界から消える。そのときの彼の表情がわずかに捉えられていたが、たんに演出の補正をするだけにしては、あまりにもせっぱつまった表情をしていた。  しかし、その八秒間の映像のうち、実際に雅也が弟の身体にさわったのは、たったの二秒でしかなかった。しかも直接さわったのではなく、スカラベを裏表に置き換えたとき、間接的に触れただけである。  そして三度目は、午前四時〇四分。小檜山も合流した四人が撮影本番に取りかかる場面だった。  岡崎拓哉の生存が最終的に確認された午前〇時〇七分以降、雅也と美保子と芳樹はずっと行動を共にするが、自転車に乗ってナイル川東岸で独自に夜景撮影をしていた小檜山は、午前三時すぎになって三人に合流した。単独行動中の小檜山のアリバイを証明する者はいない。だが、固定カメラにはまったく小檜山の姿は映っていないために、彼が疑われる客観的要素はなかった。  けっきょく死亡推定時刻の午前零時前後に、もしも拓哉に物理的な力を加えて死に至らしめることができた人間がいたとすれば、雅也、美保子、芳樹の三人しかいないことになる。  美保子は拓哉の死の直前に彼に水を与えていたが、その直後に、彼女自身が同じボトルから同じストローを経由して水を飲んでおり、解剖の結果からも毒物は検出されていない。また、包帯の口の周りが水で濡《ぬ》れても、それだけの理由で呼吸が困難になることは考えられなかった。  だから最終的にエジプトの司法当局は、こういう判断を下した。ミイラに扮装させるさいの包帯の巻き方がきつくて、拓哉は口からは満足に息ができる状況になかった。そんな状態で夜間の冷え込みが厳しい中に置かれ、彼は鼻づまりを起こして鼻からの呼吸もまったくできなくなる。そこで、補給された水を吸い込んだときの要領でなんとかわずかな唇の隙間《すきま》から空気を吸い込もうとするが絶対量が不足して苦しむ。苦しいからもっと空気が必要になる。しかし、それが得られずにさらに苦しんであえぐ。その苦悶《くもん》の連続のうちにやがて気を失い、死に至ったのではないかと。  酸素の吸入量がまったくのゼロでなくても、かぎりなくゼロに近い状況がつづくことで死に至ることはありうるとの説明である。 【沖美保子の父親の疑問】[#「【沖美保子の父親の疑問】」はゴシック体]  いったんその場から離れた岡崎雅也が、心臓スカラベを型どおりに置いたのでは災厄が降りかかるとの理由で、ふたたび弟に接近したときの様子が不自然である。たんに置物を裏返すだけなら、そこに一刻を争う必要などまったくないはずで、ゆっくりやればよかった。ダッシュして近づき、またダッシュして戻るなど、まるでミイラが爆発物でもあるかのような焦り方が納得できない。しかも雅也は、そのさい弟に対してはまったく声もかけていない。  まさにそれは、血のつながった弟に対して、死に至らしめるなんらかの仕掛けをした瞬間ではなかったのか。スカラベを裏返すだけとみせて、もっと別のマジックを一瞬にして仕組んだのではないか。 【その不自然な行動に対する当時の雅也の説明】[#「【その不自然な行動に対する当時の雅也の説明】」はゴシック体]  拓哉の死亡が確認された直後は、恋人の美保子よりも兄の雅也のほうが激しい取り乱し方をみせた。力のある小檜山が押さえつけないと何をするかわからないほど暴れまくり、丸一日は「拓哉、拓哉」とうわごとのように弟の名前を呼んで泣くばかりで、まともな事情聴取もできない状態だった。  やがて落ち着きを取り戻した雅也が語ったところによると、彼は前夜にスカラベの呪《のろ》いが撮影隊にふりかかる悪夢をみたのだという。そして、あのスカラベがイミテーションの置物以上の超自然の力を持っていることは確実だと本気で信じたと。だから、それにさわるのも恐ろしくて、あんな態度になったのだ、と説明した。もしもぼくの行動を不自然だというなら、それは真夜中の王家の谷の雰囲気がそうさせたのです、と雅也は真剣な表情で語った。 【自主ホラー映画『心臓スカラベ』の配役と設定】[#「【自主ホラー映画『心臓スカラベ』の配役と設定】」はゴシック体] [#ここから改行天付き、折り返して5字下げ] 進…………ファラオとの心霊交信を試みる大学生。岡崎拓哉。 美代子……進の恋人。沖美保子。 正樹………進の親友。岡崎雅也。 [#ここで字下げ終わり]  朝比奈耕作は、王家の谷の悲劇に関する一連のデータをまとめ直していったメモ書きの最後にきて、彼らが作ろうとしていた映画の配役表を書き添えた。  もしも美保子の父親がこのメモ書きを見たら、最後の一項目はどうでもよいことに思えたかもしれない。沖清之にとって、学生だった彼らがどんな自主映画を作ろうとしていたのかはどうでもいいことで、問題は心臓スカラベを裏返しに行ったときの雅也の奇妙な焦り方なのだったのだから。  だが、朝比奈はもっと別のところに関心を向けていた。そのひとつが、彼らが完成させようとしていた映画のキャスティングにあった。のちに港書房の高木洋介が「それはまったくの盲点でした」と唸《うな》ってしまったような着眼点が、朝比奈にはあったのだ。 「美保子さん」  メモの整理を終えた朝比奈は、隣の美保子に呼びかけた。 パリに着くまで少しおやすみになりたいでしょうけれど、その前にいくつかの質問をさせていただいてもいいですか」 「ええ」  窓のほうをじっと見つめていた美保子は、ゆっくりと朝比奈のほうに向き直った。毅然《きぜん》とした美しい横顔から、愛くるしい感じの柔らかな正面の顔に切り替わった。  その変化を見ながら朝比奈は、壁画に残された古代エジプトの王や女王たちは、ほとんどの場合、横向きに描かれていることを思い起こしていた。もしかすると人間の横顔というのは、正面よりもはるかに尊厳に満ちたオーラを放っているのかもしれない、という気がした。 「あなたのお父さんは……」  静まり返ったビジネスクラスの機内では、エンジンの音だけが低く響いている。あまり大きな声を出せば周囲に会話が聞こえてしまうことを配慮しながら、朝比奈はそっと語りかけた。 「岡崎雅也さんが弟拓哉さんの死に関与している可能性を疑っていらっしゃいます。それはごぞんじですね」 「ええ」  朝比奈をまっすぐ見つめる美保子の顔は、そこに笑いを与えたらじつに魅力的な輝きを放ちそうに思われた。だが、この件で出会ってから現在に至るまで、朝比奈はいちども彼女の笑顔を見ていない。成田で引き合わせた高木がいくら冗談を言っても、美保子はかすかな微笑《ほほえ》みは浮かべたものの、弾《はじ》けるような笑いは決して見せなかった。拓哉の件を、三年間ずっと引きずっている表情だった。 「あなた自身はどう考えていらっしゃるんですか。エジプトの警察が結論づけたように、あれは不幸な事故だと受け止めていらっしゃるのか、それとも何か人的な力が加えられた結果の悲劇だと思われているのか。そして、いまになって交際を申し出てきた雅也さんに対して、あなたの個人的な気持ちはどうなんですか」 「その質問に、いまお答えしなければいけませんか」 「というと?」 「私……」  相手の魂を吸い込んでしまいそうな瞳《ひとみ》で朝比奈を見つめながら、美保子は言った。 「とにかく朝比奈さんに一切の先入観を持たずに、王家の谷のあの場所を見ていただきたいんです。拓哉さんが命を落としたあの場所を……。そして、客観的な第三者の視点から朝比奈さんが引き出した結論を聞かせていただきたいんです」 「では、いまぼくが投げかけた質問に対するあなたの答えには、調査の方向性を誤らせる要素が含まれていると」 「はい……いろいろと」 「しかしねえ、美保子さん」  カフェオレ色に染めた髪をかき上げると、朝比奈は頭上から自分を照らしてくる読書灯の明かりをまぶしそうに見やった。 「先入観もなにも、困ったことにエジプトに着く前から、ぼくにはひとつの結論が出てしまっているんですよねえ」  美保子の目が、驚きで見開かれた。  その彼女に向かって朝比奈は言い添えた。 「もちろん、結論は他殺だということなんですけどね」 [#改ページ]    3 ルクソールの再会[#「3 ルクソールの再会」はゴシック体]  すでに結論は出ている——その朝比奈の言葉は、かなりの衝撃を沖美保子に与えたようだった。ほかの人間が同じセリフを口走ったとしても、それは当てずっぽうとか、口から出まかせと思っただろうが、朝比奈耕作という男がこれまでいかに多くの難事件を彼独特の視点で解決してきたかを父から聞かされていた美保子は、その能力を信用しているがゆえに、結論の詳細を聞くことを恐れた。そして彼女は口をつぐみ、ルクソールに着く前に事故に関する話題を会話に出すことを拒む姿勢を貫いた。  かといって、朝比奈を避けようとしているわけでもなかった。パリでの二日間、美保子はほとんど朝比奈といっしょに行動した。朝比奈もパリは初めてだったが美保子もそれは同じで、おたがい単独行動で街を自由に歩けるほどの知識はない。だからホテルで日本語の入った地図をもらって、それを頼りにいっしょに初心者コースのパリ見物に出かけた。  一月のパリは雪こそ降っていなかったが、東京の冬というよりも、美保子の住む金沢のそれに近い寒さがあった。それでもふたりはよく歩いた。地下鉄《メトロ》にも乗っていろいろなところへ行った。朝比奈も美保子もフランス語の読み書きがまったくできないために珍妙な失敗も繰り返した。そんなことをしているうちに、いつしか美保子にも自然な笑顔が浮かぶようになった。  まさに高木洋介が見ていたら「ほら、やっぱりね」と文句を言いそうな、仲睦《なかむつ》まじいカップルと他人の目には映っただろう。だが朝比奈は、あくまで美保子の気持ちを解きほぐすために「パリのデート」を組み立てているのだった。そのへんは、それこそ生真面目な氷室想介と違って、朝比奈は女の子のあしらいに慣れていたから、自然なムードで事を運ぶことができた。  ルクソールに入るまではおたがいにエジプトの話題は出さない、という暗黙の了解がおたがいの胸にあることを確認しあってからは、ふたりはできるかぎりパリを楽しもうとしていた。  しかし——  エジプトのことをとりあえず忘れようとしても、日本にいるときに較べれば、ここでは古代ファラオの王国は意外なほど身近な存在であった。たとえば、ふたりでルーヴル美術館を訪れると、いきなり正面入口がガラスのピラミッドになっていた。まずいな、と朝比奈が思うまもなく、ピラミッドの形を見た美保子の表情がこわばった。  ルーヴルは建物が三つの「翼」に分かれていて、「ドノン翼」「シュリー翼」「リシュリュー翼」と名付けられているが、入口にあったガイドを見ると「リシュリュー翼」には古代オリエントの美術品などが展示してあるという。エジプトをフィーチャーしたものではなさそうだったが、少なくとも連想はさせる。よく考えれば二百年以上の歴史を持つこの美術館では、ナポレオンがエジプト遠征で得た歴史的なコレクションなども所蔵しているのだ。だから朝比奈はリシュリュー翼は避けて、ドノン翼の「モナリザ」やシュリー翼の「ミロのヴィーナス」など、あたりさわりのない名品を見て回った。  だが、パリにおけるエジプトの存在は、もっとはっきりした形で朝比奈たちの前に現れた。凱旋門から東南東の方向へ延びるシャンゼリゼ大通りをまっすぐ二キロほど行くとコンコルド広場に出る。その広場中央に屹立《きつりつ》するオベリスクは、洒落《しやれ》たパリの街にいきなり異国情緒あふれるアラブの香りを漂わせる。それもそのはずで、ルクソール神殿にあった一対のオベリスクの片方を、一八二九年に当時の副王ムハンマド・アリがフランスに寄贈したものだった。  よりによってルクソールからはるばる海を越えてやってきた古代エジプトの巨大な遺品が、パリにいる美保子の前に現れたのだ。そのときの彼女の表情は、ガラスのピラミッドを見たときの比ではないほど青ざめていた。 「やっぱり私……」  一月の寒風のせいではなく、美保子は唇を紫色にしていた。 「あのことから逃れられないようにできているみたい」  パリで二日を過ごしたのち、三日目の夕方、朝比奈耕作と沖美保子はシャルル・ド・ゴール空港からエジプト航空に乗ってルクソールへと向かった。  ちょっと変わったルートで飛ぶ便で、首都カイロへは降りず、またルクソール上空もいったん飛び越してさらにナイル川沿いに南下し、アブシンベル神殿へのアプローチとなるアスワンにまず着陸するのだ。そののちにUターンしてルクソールへ向かうという変則ルートだった。機体整備の都合上、アスワンを終着地にできない関係でそうなるのだが、おかげでルクソールの空港に着いたのは真夜中近かった。  この便を利用していた日本人は、少なくとも団体客はまったくいないようで、はるばる東洋の国からやってきましたという顔をしているのは自分たちだけだな、と朝比奈は周りを見回した。  すると、その態度がいかにも頼りなげなおのぼりさんに見えたのか、ガラベイヤと呼ばれる布一枚をすっぽりかぶるタイプの服をまとった男が、入れ替わり立ち替わり朝比奈たちのところに近づいてきた。まずきいてくる言葉は決まっていた。 「コンニチハ、ニホンジンデスカー」  どこの国であれ、日本人ですか、という問いかけをいきなりしてくるケースにはろくなものがないと朝比奈もわかっていたから無視しようとするが、彼らは容易には引き下がらない。そして、もっともらしい写真入りのIDカードを首からぶらさげているのを示しながら「リョーガエ、アッチ」「ビザ、アルノ?」などときいてくる。ちょっと見には親切な正規の空港係員にも思えたが、そのしつこさが何だか怪しげなので、朝比奈もそういう場合の必殺技とばかりに「センエン、センエン」とやり返す。  万国共通、物売りが非常に発音しやすい日本の金銭単位なので、ここエジプトでも即座にその意味はわかってもらえたようだが、こういうシチュエーションで使う言葉ではないのでは、と彼らは一様に面食らった顔になる。 「ホテル、キマッテマスカ?」「センエン、センエン」 「ツアー、イロイロアリマス」「センエン、センエン。ヤスイヨ、センエン」  まるで噛《か》み合わないやりとりでしのぎながら、なんとか税関審査までたどり着いたものの、そこでもビデオカメラ類の持ち込み申告などに手間取っているうちに、時刻は深夜の零時を大幅に回ってしまっていた。  もちろん宿は美保子の父が日本から予約してくれていたので、そちらの心配をする必要はない。ナイル川に面したウィンターパレスというクラシックな名門ホテルである。だが、そこまではタクシーで行かなければならないが、どこがタクシー乗り場なのかと迷っていると、朝比奈たちはふたたびガラベイヤをまとった男たちに囲まれた。  それぞれがガーガーと口々にわめいていて、まるでふたりは彼らに集団でつるし上げをくっているような格好になったが、朝比奈にとってアラビア語はフランス語以上にチンプンカンプンである。それでも身ぶりなどから、言っている内容がなんとなく察せられてきた。 「どうも、おれのタクシーに乗れと言ってるみたいだね」  朝比奈が美保子に言った。もうこのころには、朝比奈も美保子に対してくだけた口調で話しかけるようになっていた。 「客引き合戦ってことなんだろうけど、真夜中には乗りたくないタイプばかりだなあ」 「私も前にきたときはカイロからレンタカーでしたから、ルクソールの空港のことはよくわからないんです」  美保子も戸惑いの色を浮かべて言った。 「まあ、この調子だと、どのドライバーを選んでも同じって感じだけど」  そう言いながら朝比奈は、できるだけ愛想のよさそうなひとりを選んで彼にスーツケースを預けようとした。そのとき—— 「ちょっと待ってください」  いきなり日本語が聞こえた。  その声にふり返って驚きの声をあげたのは、朝比奈ではなく美保子のほうだった。 「小檜山さん!」  あのエジプトロケを事実上コーディネートしていた大柄な小檜山努が、三年前よりもいっそう貫禄の出た山羊鬚《やぎひげ》を伸ばして、そこに立っていた。 [#改ページ]    4 生者の町と死者の村[#「4 生者の町と死者の村」はゴシック体] 「とにかくどんな形であれ、おれもあの出来事にケジメをつける作業に関わらなければならない運命になっていたんだよな」  翌日の朝——  朝比奈たちが宿泊しているウィンターパレスまで自分の車で迎えにきた小檜山は、朝比奈を助手席に、美保子を後部座席に乗せてゆっくりとホテルの前を出発しながら、そんなふうに切り出した。  派手な柄の半袖《はんそで》シャツにコットンパンツ、そして砂の色に染まったズックを履いた小檜山は、もともと日本人離れした顔立ちで大柄なうえに、よく日焼けしていて、すっかりエジプトの人間になっていた。  昨夜、空港での突然の再会に驚く美保子に対して、小檜山はそれが決して偶然の出会いではないことをその場で説明した。彼は決して旅人としてルクソールの空港にいたのではなかった。彼はこのファラオたちが眠る都市の住人になっていたのだ。  学生時代から世界を旅する放浪癖のある小檜山だったが、エジプトには特別に魅せられたものがあり、さらに例の岡崎拓哉の一件もあって、ますます自分の人生の中でエジプトという場所が特別なものになった。と同時に彼は、一年の浪人生活プラス二年の留年によって、人より三年もよけいに回り道していた学生生活を、もう規定どおりに完走する気はなくなっていたのだ。  そこで美保子が金沢に移ってまもなく、その年の夏に大学を中退して社会に出ることにした。大学四年まで進んだのに中退したんですか、と美保子がきくと、小檜山は、どうせ自分の成績ではまともに卒業単位はとれなかったろうから、大卒資格にこだわるだけ時間のムダだと思ったんだよ、と笑い飛ばした。  大学をやめた彼の選んだ道は、エジプトの観光会社に雇ってもらうことだった。日本の旅行代理店の採用試験をまず受けて、などという回りくどい道を選ばず、いきなり現地採用を求めるところが、いかにも小檜山らしかった。  そのバイタリティあふれる行動力と何事にも物怖じしない性格はエジプト人にも大いに頼もしく思われたようで、小檜山は日本人観光客を担当する貴重な戦力として、カイロに本社を持つ現地旅行代理店に正式採用された。そして、一年数カ月ほど本社で勤務したのち、去年からルクソール支社勤務を言い渡されていた。  その彼のもとに、美保子から朝比奈耕作とのルクソール行きを聞かされた岡崎雅也があわてて連絡をしてきたのだ。いったい美保子が何のためにルクソールなどへ飛んだのか。そっちで推理作家といっしょにどういう行動をとるつもりなのか調べてほしいと、せっぱ詰まった声で依頼してきたという。  そんな楽屋話を、小檜山は美保子と朝比奈の前で平然と打ち明けた。おれの口が軽いのを、雅也のやつは忘れてるのかなあ、と笑いながら……。そして彼は国際線の搭乗記録を調べ、美保子がやってくるルクソール到着の深夜便に合わせてここまで迎えにきたのだと、ゆうべ空港で語ったのだった。 「朝比奈さんのことは、おれも学生のころからよく知ってましたよ」  あまり敬語の使い方を知っているとは言い難い小檜山は、ぶっきらぼうだが決して悪意は感じられない口調で、助手席の朝比奈に向かって切り出した。 「申し訳ないけど、作品は読んだことないんですよね。でも、名探偵としての活躍ぶりについてはいろいろ見聞きしてましたよ、昔から」 「ああ、それはどうも」  軽くうなずきながら、朝比奈は、なんだかどっちが年上だかわからないな、と小檜山の押し出しの強さにやや圧倒されていた。 「で、今回は沖美保子嬢の依頼を受けての海外出張というところですか」 「まあ、そんなところかな」 「名探偵、エジプトへ飛ぶ……か。しかもパリ経由で、ときたもんだ。ゴージャスですねえ。美女とふたりきりの旅行をお楽しみだったのに、悪かったですね、飛び入りで割り込んじゃって」 「まったくね」  朝比奈は、この男とはどういうパターンの対応をするのがいちばん適切か、その間合いを計る意味で、わざとそういう受け答えをした。すると小檜山は、ハンドルから片手を離し、トレードマークの山羊髭を撫《な》でながらニヤッと笑った。 「半分ジョークで半分ホンネかな、朝比奈さんも」  そして彼は、後部座席にいる本人をバックミラーでチラチラ見やりながらつづけた。 「美保子はね、その存在じたいが男にとって罪なんですよ。可愛《かわい》いでしょう、こいつ。可愛いだけじゃなくて、キリッとした美しさもある。だから、おれもそうだったけど、雅也も芳樹もみんなこいつの魅力にまいっちまった。当時三年生だった三人は、全員本気でこいつに恋してたんですよ。ところが一学年下の拓哉が、兄貴の目にさえ留まらぬ早業で横取りしたもんだから、あのときは驚くやら悔しいやら情けないやらでねえ。ただ、どうもおれに関していえば、美保子は最初からぜんぜん眼中にもなかったようでね。こういうムサくるしい髭を伸ばした、年ばかりくってるオッサンはね。な、美保」  学生時代の呼び方のまま小檜山は同意を求めたが、後部座席の美保子は返事をしなかった。それでもかまわずに、彼はつづけた。 「それにしても、まだ雅也が美保のことを忘れられずにいるとはなあ。あいつもしつこいやつだよ。あの世で弟がなんと言ってることやら、だな。……で、美保の気持ちはどうなんだ。つきあう気持ちはあるのかよ、拓哉の兄貴とは」  それこそまさにパリへ飛ぶ機内で朝比奈が聞き出しそびれた質問だった。だが、それにも美保子は無言を貫いていた。 「まあ、昔からこんな感じでね」  小檜山は、朝比奈に説明しながら肩をすくめた。 「どうもこのお嬢さまは、おれみたいな野蛮な男がお気に召さないらしい。雅也や芳樹に対しては、拓哉ほどではないにせよ愛想もよかったけど、おれには……」 「ねえ、小檜山さん」  道路に沿って右手に見えるナイル川を眺めていた朝比奈が、そこで相手の言葉をさえぎった。 「これからどこへ行くんです」 「どこへ、って。決まってるでしょ。おふたかたの探偵旅行の目的地へお連れするわけですよ。王家の谷へね。しかもプロのガイドがノーギャラで、ですよ。会社には言えないよなあ」 「だけどフェリー乗り場はホテルのすぐそばにあったのに」 「こっちに橋があるんです。一九九七年に架けられたルクソール橋がね。そっちへ向かっているところですよ」 「フェリーの出発間隔はだいぶ長いんですか」 「そんなことはありません。けっこう頻繁に出ていますよ」 「だったら、そっちに乗りたいな。一刻を争う旅でもないし」 「まあ、それならそれでかまいませんよ。じゃ、そうしますか」 「ええ、おねがいします」  朝比奈の要望で小檜山は車をUターンさせて、ホテルのすぐ北寄りにあるフェリー乗り場へと向かった。 「やっぱりアレですか」  山羊髭をしごきながら、小檜山がきいてきた。 「アガサ・クリスティみたいなミステリーを書くには、ナイルの風物詩をいろいろ見ておいたほうがよいというわけですか」 「いや、もっと理由は単純ですよ」  朝比奈は答えた。 「あなたがたが最初にルクソールに入ってきたとき、この東岸から西岸へ渡るのに橋ではなく、ローカルフェリーを使ったと聞いたものですからね」  朝比奈はそこに微妙なニュアンスを込めて言った。  運転をする小檜山の表情が、ほんのわずかだが曇った。それは朝比奈耕作の挑戦状を受け取った、とも読み取れる一瞬の緊張だった。  ローカルフェリーには観光客の姿はまったくなく、東岸と西岸を行き来する地元の車ばかりが乗り込んでおり、乗客もほとんどがガラベイヤ姿の地元の人間だった。その三割程度は頭にターバンを巻いていたが、それよりも目立つのが首もとのマフラーだった。小檜山が半袖《はんそで》シャツでいるように、直射日光の照りつける日中ならば一月でもまったく寒さは感じない。地元住民の多くが首元にマフラーを巻いているのは、寒さではなく砂よけのためだった。風が強く吹くと、場所によっては猛烈な砂塵《さじん》が舞い上がり、そのさいに口と鼻を覆うものがないと、たちどころに喉《のど》をやられてしまう。  ナイル川をゆっくりとした速度で横切りはじめたフェリーの上で、朝比奈はそういった地元の人々の服装を観察していた。  沖美保子は進行方向の手すりにもたれて、これから向かう西岸の景色を眺めている。恋人が非業の死を遂げた死者の谷がある方角を……。  彼女の足元に横たわるナイルは、それが川であることを忘れさせるくらい、ゆったりとした流れだった。水面だけ見ているぶんには、湖の上を移動していると言われても信じられるほどだった。だが、二十世紀初頭にこのはるか上流にアスワンダムが、さらに一九七二年に巨大なアスワンハイダムが完成するまでは、ナイルはつねに氾濫《はんらん》する川であり、それが下流のデルタ地域に肥沃《ひよく》な土地をもたらしてエジプト文明を開化させたのだった。そして氾濫した水が引いて現れた地面で、せっせと動物の糞《ふん》を転がして活動していたのがスカラベ——タマオシコガネムシ、俗名ふんころがしである。  しかし皮肉なことに、ナイルの治水事業が完成したおかげで、流域の農産環境は場所によってはむしろ厳しい状況となり、砂漠化が進行していく地域も目立っていた。大自然の恵みであるナイルの氾濫を人間が抑えてしまったからである。  その母なる河を渡るフェリーは、遅い速度にもかかわらず対岸に着くまでわずか五分ほどしか要さない。だから車の運転手はいちいち外へ出ずに、車内に座ったままでいる者も多かった。だが、小檜山は外に出て、朝比奈のほうへ近寄ってきた。  いつのまにか彼は濃い色のレンズをはめたサングラスをかけていたので、もはや日本人にはまったく見えなかった。 「朝比奈さん、お泊まりのホテルからも夜明け前のコーランがよく聞こえたでしょう。それともゆうべはぐっすりおやすみでしたか」 「そのコーランで目が覚めましたよ。エキゾチックなあの響きが聞こえてきたときは、半分夢をみているんじゃないかと思ったけれど」  カフェオレ色に染めた髪を風になびかせながら、朝比奈は自分の泊まっているホテルを、はじめてナイル側から眺めた。 「カーテンを開けると、まだ外は夜が明けきっていなくて、シルエットになったナイル川をバックにして、コーランの調べが流れている。アラビアンナイトの世界に入り込んだ感じだったなあ」 「サラートっていうんですがね、イスラム教では一日五回の礼拝が義務づけられています。夜明け前に一回、日中に二回、日没後に一回、そして夜というふうに。そのたびにあちこちのスピーカーからコーランが流れる。こっちに滞在している間は、いやでも耳に飛び込んできますよ。  ちなみにコーランという発音をするのは日本人だけでね、コラーンとかクラーンって感じで後ろにアクセントを置かないと、こっちじゃ通じません。おれはクラーンって言ってますけどね。そのクラーンの調べが、この国民にとっては生きている証そのものというわけです。一日五回ということは、単純計算で年に千八百回以上聞くわけでしょ。おれもエジプト暮らしが二年何カ月ですからね、もう四千回は耳にしたことになるのかな。もうすっかり身体に染みついちゃってねえ」  そして小檜山は、船尾側に見える東岸の景色を指さした。 「いま我々がやってきた方角のナイル東岸に、現在のルクソールの中心生活圏があるわけですけど、昔もそうだった。東側だけが町として栄えて、これから向かう西岸には王家の谷のような遺跡しかない。これにはちゃんとした理屈があって、ナイルの東は陽が昇る方向だから生者の町なんですよ。しかしナイルの西は日が沈む方角だから死者の町、いや、死者の村といったほうがいい。クルナ村のほかには、華やかな町なんて呼べる規模のものはないんだから。でも単純明快でしょう。川の東は生の世界。川の西は死の世界。すべては太陽信仰からくる区分けですよ」  小檜山は、船尾側と船首側の景色を交互に指さしながら「ガイド」をはじめた。 「だから東のほうには創造神アメンと太陽神ラーが結合したアメン・ラーを最高神として祀《まつ》るカルナック大神殿ができた。第十八王朝の信仰の総本山です。そして太陽が沈むナイルの西方には、王家の谷と呼ばれるファラオの墓や葬祭殿が次々に建てられていった。王家の谷というよりは、古代エジプト王朝大霊園と言ったほうがわかりやすい」 「なるほど。生者の町に死者の村……か」 「だけどね、古今東西いつの世にも共通して言えるけど、歴代のファラオによるアメン神信仰がエスカレートしていくにしたがって、神官もまた絶大な力を持つようになった。アメン大神殿の神官たちにとてつもない富が集中したから、政治に対する発言権も増してきた」 「日本でいえば比叡山みたいなものかな」 「かもしれない。しかしそういう状況は、専制君主制を敷きたい王様には面白くないし目障り。ということで、トトメス四世からその息子アメンヘテプ三世の時代にかけて、アメン神官団との対立が激しくなっていった。そしてついに、三世の息子のアメンヘテプ四世のときに宗教改革が起こった。太陽神の威光を笠に着て王様に楯突《たてつ》くような坊主は——坊主とは言わないか、ははは——神官は許すまじということで、アメン神の信仰を撤廃して、アテン神の信仰に切り替え、自分の名前もアメンヘテプからイクナテンに変えちゃった。アメン神の代わりに、アテン神の名を取り込んで改名したわけです。  このルクソールは当時テーベと呼ばれていたんですが、アメンヘテプ四世改めイクナテンは、都もテーベからずっと下流にいったアケトアテンに遷《うつ》した。いまのテル・エル・アマルナです。この王様のカミさんが、よく知られたネフェルティティでね。とりあえず美人だということになってる。だけどこの宗教改革はあまりにも排他的で失敗して、イクナテンの次の次の代の王様になると、またアメン神信仰が復活して、都もこのテーベに戻ってきたらしい。その王様の名前、知ってますか」 「いや」 「かの有名なツタンカーメンですよ」 「ああ、そうなんだ」 「ツタンカーメン、ツタンカーメンって、みんな気やすく呼ぶわりには、その名前の中にアメンという神の名が含まれていることに、一般観光客は気づいてない。『アメン神の生きる似姿』という意味がツタンカーメンなんですけどね。はじめは彼もツタンカーテン[#「テン」に傍点]と称していた。それがツタンカーメン[#「メン」に傍点]に変わったのはイクナテンの宗教改革が失敗して、ふたたび信仰がアテン神からアメン神に戻ったことを意味する重要な証拠なんです。ところがこの少年王は、父親がはっきりしていない。イクナテンの次の次の代だからといって、彼の孫というわけでもなく、彼の子供でもなく、むしろイクナテンの父だったアメンヘテプ三世の実の子ではないかという説が有力でね。つまりイクナテンの腹違いの弟じゃないか、と。そのへんの親子関係をきっちりしておくことが、第十八王朝の宗教改革がいつからはじまったのかという全貌《ぜんぼう》を明らかにすることにもつながるんです。  それで早稲田大学の吉村作治教授が中心となり、ツタンカーメンをはじめとする王家のミイラのDNA鑑定をやろうということになった。そうすれば系譜がDNAレベルで明確になる。ミイラという肉体が存在するからこそ可能な、歴史の書き換えが起きるかもしれなかったわけです。でも、西暦二〇〇〇年末の段階で、とりあえずエジプト政府からノーが出た。たぶん明らかになっては困ることがあるからでしょう」 「というのは?」 「ツタンカーメンの実の親が誰かというレベルの問題じゃなく、古代エジプト王朝の人種的なルーツが、いまのアラブ社会にとって好ましくないところにあったら困るからでしょ。具体的に言えば、ユダヤ系に共通する遺伝子があったりしたらね。……ああ、話しているうちにもう到着だ」  いつのまにかフェリーは西岸に着いていた。小檜山は朝比奈をうながして車のところへ急ぎ、美保子も反対側から戻ってきた。  そして三人が車内で下船の順番待ちをしているとき、助手席の朝比奈が、小檜山に対してとも美保子に対してとも受け取れる口調で質問を放った。 「ぼくは美保子さんのお父さんから、例の『五時間ビデオ』のコピーを見せてもらったんですが、作品本体のビデオ映像というのは残っていないんですか」 「作品本体……というと?」  サングラスをかけた小檜山は、やや戸惑った間を置きながら問い返した。 「ですから『心臓スカラベ』と題したホラー作品本体の映像ですよ」  朝比奈は、自分のほうにまっすぐ向こうとしない小檜山の横顔に言った。 「もちろん拓哉さんの死で撮影が中断したことはわかりますけど、それまでに撮影済みのシーンもあったわけでしょう」 「いや」  小檜山は硬い表情で首を左右に振った。 「ないですね」 「それは事故のあと破棄したということですか」 「そうじゃなくて、もともとないんです」 「意味がわからないけど」 「わかんないスか。つまり、王家の谷でミイラとなった『進』の包帯をほどくところから撮影を開始したんです。あれがファーストシーンだったんですよ」 「それはまた、ずいぶん変わった撮影順だなあ」  朝比奈が感想を洩《も》らした。 「話を聞くかぎりでは、そこは作品上でひとつのクライマックスなわけでしょ。そういう重要な部分から撮影をはじめるものなんですか」 「プロのやり方は知りません。でも、おれたちにはおれたちの都合があったもんでね」 「都合とは?」 「みっともない話だけど、そこの部分しかシナリオができていなかった、ということですよ。なにしろきちんとした台本を仕上げてから撮影に出かけたわけじゃないもんで」  小檜山がキーを回し、ブルルンと音を立ててエンジンがかかった。彼らの車がフェリーから下りる番になったのだ。 「そして、あの段階で明確な形でセリフまで決められていたのが、進が包帯を解かれて発狂する場面だけだった、というわけです……な、美保」  小檜山は、最後のひとことを後ろにいる美保子に向けて言った。 「うん」  と、小さな返事が返ってきた。 [#改ページ]    5 太陽の神のもとで[#「5 太陽の神のもとで」はゴシック体]  対岸に降り立ってから改めて朝比奈は知ったのだが、彼らが乗ってきたのは観光用のフェリーではなく、一般住民用のフェリーだった。観光用とは乗り場も別なのだ。道理で観光客の姿がないと思ったが、それだけに下船するときのにぎやかさは格別だった。東岸から運ばれてきた荷物を受け取りにきた西岸の住民が集まってきているからだ。それでもルクソール橋が開通する前に較べたら、この着岸風景も格段に地味なものになったらしい。  下船したところからまっすぐ西へ進めばメムノンの巨像を右手に見ながら王妃の谷へ通じる。そちらは王ではなく、ネフェルタリなど王妃の墓が集まっている一角である。しかし王家の谷のほうは、いったんナイル川に沿って北上してから回り込む形になる。 「朝比奈さん、初めにお断りしておきますが」  運転しながら、小檜山が言った。 「いまからお連れするのは、あくまで一般に公開されている王家の谷のエリアです」 「だから?」 「おれたちが三年前に撮影したポイントは、あの当時でも真夜中にこっそり行かないとダメだった場所だけど、いまはなおさら規制がきつくなって容易に近づけません。無許可で発掘作業をはじめる連中を排除するためもあるけれど、例のハトシェプスト葬祭殿で起きた観光客相手の無差別銃撃テロ以来、不審者の取り締まりが厳重で、夜間の見回りもぐんと厳しくなっているんですよ。だから、拓哉が死んだ場所そのものへは行けないんです。たとえ真夜中でも、です。それは美保も了解してくれよな」  小檜山は後ろの美保子にも語りかけた。 「花束のひとつでも捧げたいところだろうが、そんな事情があるからさ」 「うん」  また短い返事が戻ってきた。  ルクソール入りしてからの沖美保子は暗く沈み込んでいて、明るい笑顔もときおり見せていたパリにいたときとは別人だった。とくにきょうは朝から口数も少なく、自分から決して口を開こうとしなかった。死者が眠るナイル西岸に渡ってからは、美保子は小檜山と同じような濃い色のサングラスをかけ、目の表情も完全に隠してしまっていた。  小檜山と美保子がふたりとも黒いサングラスをかけたので、ひとり素顔のまま残された朝比奈は妙な感じだった。ふたりとも朝比奈の質問から本心を隠すために、そんなものをかけたのではないかと思いたくもなった。だが、必ずしもサングラスが心の動きを隠す小道具だけでないことは、王家の谷に入ってからすぐにわかった。日射しが強烈にまぶしいのだ。  西岸に降り立ったときには、風景はぜんたいに赤茶けた色合いに感じられていたが、王家の谷までくると、発掘や道路整備のために掘り返された一帯が白に近い砂の色をしていた。そのため照り返しが強烈で、車を降りてしばらくの間は、朝比奈はそのまばゆさに慣れることができずにずっと顔をしかめていた。 「朝比奈さん用に、サングラスをひとつよぶんに持ってきておけばよかったですね」  車をロックしながら、小檜山が言った。 「そこまで気が回らなくて申し訳ないです」 「ぼくも持ってくればよかったけど、なにしろ日本じゃサングラスとは無縁の季節だからね」  額のところに片手をかざしながら、朝比奈が言った。 「それに、日ごろからお日さまとは無縁の暮らしを送っているもんだから、直射日光には弱いんだよ。でも、この日射しを浴びれば納得もいくなあ」 「何が、ですか」 「この国で太陽が神になりえたというのが」 「ああ、なるほど」 「もちろん日本でもほかの国でも、太陽はつねに神だったろうけれど、砂漠の太陽はまた格別だよね」 「ですね。……それじゃ、いまから入口までトロッコバスに乗ります」 「トロッコバス?」 「バスというよりは、ディズニーランドの駐車場を走り回っている乗り物みたいなものですけどね。屋根はあるけど吹きさらしで、二、三|輛《りよう》連結して入口まで連れていってくれるヤツ……ああ、あれ、あれ」  小檜山が指さしたほうに目をやると、まさにディズニーランドで走っていそうな三輛連結の車が、観光客をピックアップするために近づいてきた。  ここでの案内を小檜山努にまかせながら、朝比奈はどこでどういうふうに「結論」を切り出したものかと迷っていた。ルクソールにきてはっきりしたのは、日本で出した仮説を変更すべき要素はひとつもない、ということだった。逆に、仮説を補強するデータは数多く見つかっている。  小檜山努のアゴから延びている山羊鬚《やぎひげ》。砂の色に染まった彼のズック靴。異国情緒あふれるローカルフェリーの光景。そこに乗っていた地元住民の砂よけのマフラー。そして、この空気の乾燥度——  昨夜遅くにルクソールへ降りたってからまだ半日しか経っていないのに、朝比奈は喉《のど》がかなり痛くなっていた。空気の乾燥のせいである。日本でも冬場のいまは空気が乾燥する時期だが、このルクソールの比ではなかった。さすがに砂漠気候は違うと、朝比奈は実感させられた。  日射しが強くても汗はあまり出ない。しかし実際には、汗の粒を形成するひまもないほどすばやく身体の水分が蒸発しているのだ。そして、鼻腔《びこう》や口腔の水分も容赦なく奪い取られてゆく。じっと立っているだけでも、砂漠気候のもとでは身体から水分が失われているのだ。こればかりは日本にいてガイドブックを見ただけではわからない、現地にきたからこそ初めて体感できる事実だった。そして、そのこともまた朝比奈の仮説を補強する大きな要因になっていた。  すなわち、ミイラ姿で窒息死した岡崎拓哉は事故でなく他殺であり、しかもその背景には悲劇的な勘違いと、彼らが作ろうとしていたホラー映画より何倍も恐ろしい人間の心の闇《やみ》が隠されていた、という仮説である。そしていま朝比奈は、それを仮説の領域から最終結論へと昇格させる段階にきたことを感じていた。  ただし、予定外だった小檜山努の登場を受けて、彼のいる前でその結論を披露するか、それともあくまで美保子とふたりきりの時間を設けて話すか、ということが新たな問題になっていた。小檜山にはそんな朝比奈の内心が読みとれるはずもなかったが、西岸へ渡るときに朝比奈が橋よりもローカルフェリーを使いたい理由を述べたときや、『心臓スカラベ』の撮影テープが存在しないのかとの質問をしたとき、貫禄十分な山羊鬚の小檜山に明らかな警戒心が浮かんだ。  小檜山に関していえば、フェリーに乗船する早々にサングラスをかけたのは、太陽光線から目を保護するためというよりも、朝比奈に鋭い質問を浴びせられるたびに心の動揺が目に出ることを見られまいとする防御策かもしれなかった。  その彼を謎解《なぞと》きの舞台に引っ張り出すべきか否か、それが美保子にとってプラスになるかマイナスになるか、あれこれ考えた末に、朝比奈は決めた。こうなったら、ふたりの前で話してしまおうと。 「現在王家の谷で公開されているファラオの墓は十いくつありますが、とりあえず朝比奈さんに見ておいてもらいたいのは、いちばん有名なツタンカーメンの墓はもちろんですが、ラメセス六世の墓、これですね。美保も三年前にきたときは、時間がなくて見ていなかったよな」  トロッコバスから降りると、小檜山は手慣れたガイドの口調でふたりを案内した。 「何が見どころかというと、壁画の美しさです。これは驚きますよ。場所によっては、まるでレプリカじゃないかと思えるくらい色が鮮やかなところもあってね。ラメセス六世は第二十王朝のファラオで、ツタンカーメンから二百年以上時代が新しくなるんですが、それにしたって、いまから三千年以上も前であることに変わりはない。それなのにこの壁画の美しさは感心させられます」  入口でガラベイヤ姿の係員にチケットを渡し、朝比奈が手にしていたビデオカメラに対してさらに追加料金を要求されたのちに中に入ると、たしかに小檜山が強調したように、両側の壁から天井に至るまでびっしり埋め尽くされた壁画の数々は、後年補修したのではないかと思えるほど、その彩色がくっきりしていた。 「ちなみに天井に描かれているのは『死者の書』です」  サングラスをはずして狭い通路の先を歩く小檜山がそう説明したとき、朝比奈と並んでいた沖美保子の身体がこわばったような気がした。しかし、その言葉に敏感に反応してしまうのも無理はない、と朝比奈は思った。ミイラに扮《ふん》した岡崎拓哉は『死者の書』第三十章が彫られた心臓スカラベの置物を胸にして息絶えたのだ。そのままスカラベを胸に載せたのではほんとうに弟が死ぬかもしれないと、兄の雅也が不安がって、わざわざそれを裏返ししに戻ったにもかかわらず、拓哉は死んだ。  あおむけになった甲虫《こうちゆう》の置物を胸に載せたまま、いつ息絶えたのかもビデオ映像ではわからぬ状況で、泥色に染めた包帯で全身をくるまれた岡崎拓哉は静かに、しかし苦しみながらあの世へと旅立った。冥界で死者の心臓が不利なことをしないようにとの祈りを込めた置物であるはずの心臓スカラベが、彼を地獄へ送り届ける水先案内人のような役割を果たしてしまったのだ。  美保子の父・清之は娘からその映像を見せられて、兄の雅也がスカラベを裏返しするために戻った八秒間に死のトリックがあると主張した。  朝比奈も、その八秒間に謎を解く鍵《かぎ》があることには同感だった。何か特別な目的がないかぎり、雅也はあのようにバタバタと焦った行動に出る必然性がなかった。さらに突っ込んで言えば、雅也が死のトリックの仕掛け人であるという点でも、朝比奈は美保子の父に賛成だった。  しかし、決定的に意見の異なる点がふたつあった。まず第一に、拓哉を死に至らしめたトリックは、雅也が「ミイラ」に再接近した八秒間に仕掛けられたのではないと判断していることだった。巧妙な死の罠《わな》はそれよりも十分ほど前に、雅也が天田芳樹や美保子とともにスカラベを拓哉の胸へ置きにいった第一回目の接近のときに、じつに見事にセットされていたのだ。  そして第二の見解の相違は——これこそ、一口に語っても美保子の父にはとうてい理解してもらえない話だろうが——死の罠を仕掛けたのは兄の雅也であったにもかかわらず[#「死の罠を仕掛けたのは兄の雅也であったにもかかわらず」に傍点]、兄には弟を殺すつもりがまったくなかった[#「兄には弟を殺すつもりがまったくなかった」に傍点]、という点だった。 「……というわけで朝比奈さん」  小檜山の声で朝比奈はハッと我に返った。 「ラメセス六世の墓ですが、見事なものだったでしょう」 「え? あ、ああ、そうですね」  朝比奈は急いで相づちを打った。狭いトンネルのような通路から階段を降りて広い玄室に到達し、そこに描かれたスカラベをはじめとする見事な壁画の数々を眺めてから、また折り返し出口のほうに戻ってきたことに、朝比奈はまったく気づいていなかった。死者の書のトンネルを歩きながら、拓哉の最期に関する場面を考えているうちに、小檜山の案内する声はぜんぜん耳に入っていなかったのだ。 「それではつぎにお待ちかねのツタンカーメンの墓へ行きましょう。この真向かいにあるのがそうですから」 「いや、ちょっと待ってください」  ふたたびまばゆい太陽のもとに出てきたところで、朝比奈は小檜山をさえぎった。 「小檜山さん、ふたつお願いがあるんですが」 「なんでしょうか」  元のようにサングラスをかけながら、小檜山がきいた。 「まず、すごく喉《のど》が渇いたんでミネラルウォーターがほしいんです。どこかで売ってませんか」 「ああ、それなら向こうに売り子が立っていたけれど」 「それからもうひとつ、ツタンカーメンの見学は後回しにしましょう」 「後回し、というと?」 「そりゃぼくもミステリー作家だし、一観光客の立場からしてもツタンカーメンの墓は見たいですよ。王家の谷まできて、これを見ずに帰るなんて、たとえが陳腐かもしれないけれど、日光まで行って東照宮を見ずに帰るようなものだと思う。でもね、小檜山さん、それから美保子さん」  朝比奈はいちばん後ろから出てきた美保子に向き直った。彼女は、王墓の中に入っている間もずっと黒いサングラスをかけっぱなしだった。つまり、美保子にとってはファラオの墓の壁画見物などどうでもよいことだったのだ。 「このまま王家の谷を見物しつづけていったら、ぼくは何のために美保子さんのお父さんに頼まれてエジプトまでやってきたのかわからなくなる。小檜山さんがプライベートで案内してくださっている厚意には感謝しますよ。けれどもぼくがここへきた目的は、あくまで岡崎拓哉さんの死の原因を特定することなんだ。そこで導かれた真実こそが、雅也さんからつきあってほしいと言われている美保子さんに、その要望をどうあしらうべきかの判断基準になると思う」 「おっしゃりたいことはわかりますけどね、朝比奈さん」  黒メガネの奥に感情を隠して——しかし、声に出たいらだちは隠せぬまま、小檜山努は言い返した。 「拓哉の死因に関しては、もう結論が出ているんですよ、三年前にね。ルクソール警察が司法解剖までして不慮の窒息死という鑑定が出ているんだ。そりゃね、実際に拓哉に包帯を巻いた芳樹にとってはつらい判定ですよ。まるで彼が拓哉を死に追い込んだみたいだもんね。だけど、何はともあれ結論は出たんだ。映画撮影におけるアクシデントだったんだ。だからおれにとっても美保にとっても、芳樹にとっても雅也にとっても、あれは過去のものとすべき事故なんだ」 「もちろん、この三年間、ずっと美保子さんもそうであってほしいと願いつづけていたことでしょう。美保子さんのお父さんだって同じ気持ちだった。このまま時の流れがすべてを消してしまってくれれば、と。……だけど、いまになって雅也さんが出てきたんですよ。亡くなった拓哉さんのお兄さんが、美保子さんと結婚したいと」 「あんなヤツはほっとけばいいじゃないですか」  雅也本人から美保子の動向を探ってほしいとの要望を受けているにもかかわらず、小檜山は突っ放した言い方をした。 「要は雅也が美保をあきらめりゃいいことなんだ。そうでしょ。おれなんか、美保への一目惚《ひとめぼ》れをとっくにあきらめてんのにさ、雅也も往生際悪いんだよ。弟にとられた段階では、もうアカンと思ったんだろうけど、拓哉が死んだもんで、またスケベ心が頭をもたげ、冷却期間をおいたら自分がプロポーズしても許されると考えた。それが甘いんだよな。だから、また電話があったらおれからも言っときますよ。……そうだな、こういうのはどうです。雅也、残念だけど美保にはもう決まった相手がいるんだ。推理作家の朝比奈耕作さんだよ。エジプトまでふたりでやってきたのは、なんのことはない、ハネムーンだったわけさ、とね」 「美保子さんのように魅力的な方とそういう設定にしていただけるのは光栄ですが」  ひとりだけサングラスをかけていない朝比奈は、陽光に目を細めながら言った。 「その前に、小檜山さんもそろそろウソをつくのはおしまいにしませんか」 「なに?」  小檜山が色めき立ち、美保子も身体をこわばらせた。  ふたりともサングラスをかけている意味がないほど、感情が面に出ていた。 「すべてをはっきりさせましょうと申し上げているんですよ、小檜山努[#「努」に傍点]さん」  いきなりフルネームで言われ、小檜山は言葉を失った。  小檜山という苗字《みようじ》ではなく、努という名前のところを強調した朝比奈の言い方に、彼はある意図を感じ取って凍りついた。 「ねえ、努さん」  朝比奈は、こんどは小檜山を名前だけで呼んだ。 「あなたはぼくの小説は読んだことはないが、名探偵ぶりは知っているとおっしゃってくださった。大変ありがとうございます。それならば、ぼくがとんでもない着想をする人間であることもごぞんじでしょうね」 「………」 「これを見てもらえますか」  朝比奈はポケットから一枚の紙を取りだした。  それは東京からパリへ飛ぶエールフランス機の中でまとめあげたメモの最終ページだった。そこには朝比奈の筆跡でこういう項目が書かれてあった。 【自主ホラー映画『心臓スカラベ』の配役と設定】[#「【自主ホラー映画『心臓スカラベ』の配役と設定】」はゴシック体] [#ここから改行天付き、折り返して5字下げ] 進…………ファラオとの心霊交信を試みる大学生。岡崎拓哉。 美代子……進の恋人。沖美保子。 正樹………進の親友。岡崎雅也。 [#ここで字下げ終わり] 「いかがですか、ぼくの目のつけどころは」  朝比奈は言った。 「ねえ、ススム[#「ススム」に傍点]さん……じゃなかった、ツトム[#「ツトム」に傍点]さん」 [#改ページ]    6 ミイラの中身[#「6 ミイラの中身」はゴシック体]  ラメセス六世の墓から出て五分後——  朝比奈耕作と小檜山努、そして沖美保子の三人は、王家の谷入口近くの砂地の上にじかに腰を下ろし、まばゆい地面の照り返しを受けながら、しばらくはたがいに無言でいた。依然として小檜山と美保子はサングラスをかけたままだった。  それぞれの横には、ペットボトルに入ったミネラルウォーターが一本ずつ。王家の谷の入口にはレストハウスもあるが、あえて朝比奈はむき出しの砂地に座って、輝く太陽のもとで話をはじめることを主張した。  話とは、もちろん岡崎拓哉の死に関する謎解《なぞと》きと、それ以上に重大な内容をはらむ事件の背景に関する総合的な推理である。  地べたに座り込んだ三人を見て、子供やおとなの物売りが入れ替わり立ち替わりやってきて、ロウ石で作ったネコの女神やオベリスクの置物、あるいは粗悪なパピルスの絵などを売りつけようとしたが、小檜山がかなりきつい調子のアラビア語で追い返すと、やがてその異常な気配を察したのか誰も近寄らなくなった。 「今回のこの話を美保子さんのお父さんから聞かされたとき、最初にぼくはこういう質問をしたんです。このエジプトロケは、美保子さんにとっては非常にむごい旅になったことでしょうが、その一方では、恋人だった拓哉さんとの最後の旅行でもあったはず。だから、いろいろな写真やビデオも思い出の品として大切に残してあるんでしょうね、とたずねたんです」  朝比奈は、最初は美保子に向かって話しはじめた。 「延々五時間にわたって、微動だにしないミイラ姿の拓哉さんを写した無気味なビデオだけでなく、もっと明るい表情の拓哉さんを記録した映像も残っているのが当然だと、ぼくは思っていました。それを見れば、拓哉さんや美保子さんだけでなく、雅也さん、天田さん、小檜山さんの人柄もわかるだろうと。事件の全容解明を依頼されたぼくとしては、『登場人物』のキャラクターをつかみうる資料をなるべくたくさんほしかった。その意味において、ビデオは最高の素材です。なにしろ映画製作同好会なんだから、そういうプライベートビデオもたくさん残っているものと信じていました。ところがカラープリントのスナップ写真やデジカメ写真は少しあるけれど、ビデオ映像はほかにまったくないという返事を、ぼくはあなたのお父さんからもらったのです。プライベート・ビデオはもちろん、映画本体の撮影テープもないのだと」  朝比奈の言葉を、美保子は黙って聞いていた。黒いレンズの陰に隠れてその表情を窺い知ることはできなかったし、視線がどちらに向いているのかもわからない。その点では小檜山も同じだったが、前のめりになっている姿勢から推し量って、少なくとも彼は目を皿のようにしてこっちを見ていそうだなと朝比奈は想像していた。 「そのお父さんの答えに、ぼくは大きな疑問を抱きました。だからこそ、さっきフェリーから下りるときに小檜山さんにもういちど念押ししたんですよ。ほかに撮影した作品のテープは残っていないんですか、と。すると、拓哉さんの死亡が発見されたあのシーンが、まさにクランクインの場面だったという。しかし、どう考えたってそれはありえない。あのシーンを、映画撮影の第一番目にもってくるなんて絶対にありえない」 「どうしてそう言い切れるのかな」  ボソッと小檜山がつぶやいた。わざと凄《すご》みを利かせるような低い声だった。 「さっきも言ったじゃないですか、朝比奈さん。あそこの場面しか台本ができていなかったんだって」 「では『心臓スカラベ』なる作品において、主人公の大学生である進がミイラになる場面は描くつもりはなかったんですか。包帯をほどくシーンはあっても、巻きつけるシーンは撮ろうと思わなかったんですか」 「だからあ」  小檜山は、イライラを隠せなくなっていた。 「セリフがまだ決まってなかったから、そのシーンを先に撮影できなかったんだよ」  言葉遣いもかなり雑になってきた。 「なるほど、それでは事故さえ起きなければ、包帯を巻くシーンも、あとからちゃんと撮るつもりだったと」 「もちろんですよ。進が発狂する場面の盛り上がり方を見てから、逆算してセリフなんかを考えてもいいと思って、そういうふうに芳樹とも相談していた」 「では、そのさいは、また新しい包帯を用意するつもりだったんですね」 「新しい包帯?」 「唯一の記録映像である五時間にわたる固定ビデオによれば、拓哉さん演じるミイラに巻かれた布は、いかにも古めかしい色をしていました。あれは市販の包帯を前もって染めておいたんでしょう」 「ああ、そうですよ」 「じゃ、そういう包帯を余分にもうワンセット用意していたんですね、とおたずねしてるわけですよ」 「………」 「予定の五時間が経過して、いよいよミイラの包帯を解く場面になって——これは劇中の演技としてスタートした部分だと思いますけどね——進の親友・正樹役の雅也さんは、手にハサミを持ってミイラのもとへ駆け寄った。恋人・美代子役の美保子さんとともにね。そして、呼びかけても返事をしない進をおかしいと思い、ミイラの顔の部分から包帯をハサミで切り裂いていった。ここは実際の拓哉さんが変だと思ったわけではなくて、ミイラが返事をしないのは予定の演出だったわけですよね。だけどすでに、ミイラの身体を揺り動かした美保子さんは、どうもおかしいと気づきはじめていた。そうですよね、生身の人間にしては硬い、と」 「ええ」  かすれるような声を出して、美保子はうなずいた。それを見てから、朝比奈はつづけた。 「雅也さんのほうは、その異変を知ってか知らずか、ともかく必死になって包帯にハサミを入れていく。劇中の人物に与えられた役どころを忠実に演じているとも、現実の異常に気づいて焦っている場面とも、どちらにもとれるシーンでした。そして、包帯が切り取られてあらわになった進の顔には……いや、拓哉さんの顔には、演技などではない本物の死の影が浮かんでいた。どうみても呼吸をしていないし、顔から完全に血の気が失せている。それで全員が大慌てになって、小檜山さんや天田さんも駆け寄って急いで包帯をほどきはじめた。もうそこからは劇の進行ではなくなった。現実のパニックシーンがビデオに記録されてゆくわけです」  思い出したくもないシーンが朝比奈によって再現されてゆき、サングラスの上から覗《のぞ》く美保子の眉間《みけん》に深い皺《しわ》が寄りはじめた。苦悩のタテ皺である。 「でも、包帯をハサミで切るところは、あくまで予定の演出だった。だから、もしも小桧山さんが主張するように、包帯を巻くシーンをあとから撮るつもりなら、泥の色に染めたミイラの布がまたよぶんに用意していなければおかしいわけですよ。そうでなきゃ、包帯を切るシーンを先に撮影できるわけがない」 「………」  小檜山は反論に詰まっていた。 「どうなんですか、小檜山さん」 「どうなんですか、って」 「ほんとはミイラに包帯を巻きつけるシーンも撮影してあったんでしょう。ねえ、美保子さん、そうじゃありませんか」  朝比奈は最初は小檜山に、そしてつぎは美保子にたずねた。  だが、どちらかも肯定の返事は戻ってこない。かといって、否定の返事もない。 「ちょっと話を戻しましょう。ぼくは美保子さんから資料として提供していただいたデータの中にあった、事故が発生するまでのロケ・スケジュールを見ていて、やはり疑問に思ったことがあるんです」  朝比奈は、さきほど小檜山に示したメモの前の部分を取り出して広げた。 「土曜日の夕刻に成田を発ったみなさんは、現地時間で翌日曜日の早朝にカイロに到着しました。そこでワンボックスカーを借りて、早速市内見物に出ている。小檜山さんの運転でね。そして月曜日には、カイロ郊外にあるギザのピラミッドまで出かけている。当然、ピラミッドの中にも入ったんでしょう?」  美保子にたずねると、彼女は無言でうなずいた。 「ラクダなんかにも乗りませんでしたか」 「乗りました」 「そういった場面を、映画製作同好会であるあなたがたがビデオに撮らないはずはないと思うんですけどねえ」 「………」  返事をしない代わりに、美保子はサングラスの奥から小檜山のほうにチラッと目を向けたようだった。 「小檜山さんが言うように、ぶっつけ本番で組み立ててゆく映画の進行がまだ決まっていなかったとしても、そして登場人物のセリフが決まっていなかったとしても、何らかの画を撮っていてもよさそうじゃないですか。進、美代子、正樹という三人の大学生がエジプト旅行をしているうちに恐ろしいファラオの呪《のろ》いに巻き込まれるわけでしょう。だったら、当時のみなさんが普段着の格好で街を歩けば、そのまま映画に使えるじゃないですか。楽しそうにピラミッドを見学する様子を写せば、ちょっとした三角関係を匂《にお》わせた男ふたりに女ひとりの青春旅行といった場面が自動的に撮れるじゃないですか。面倒な打ち合わせもなしに」  朝比奈はどちらかが言葉をはさんでくるのを待ったが、ふたりとも黙りつづけるばかりなので、話の先へ進めた。 「問題の心臓スカラベの置物は、美保子さんがカイロの市場《スーク》で見つけたようですが、スークの雑踏なんて、これまた異国情緒たっぷりで最高の被写体だと思うんですけど、それでも撮らなかったんですか。さっき小檜山さんが教えてくださったように、日に五回流れる礼拝のクラーンなどは最高の効果音でしょう。そんなおいしい光景も無視したんですか。まだあります。劇中の進は、どこかのいかがわしげな店で、ファラオのミイラを包んでいたという布を手に入れるわけでしょう。当然、その場面だって撮っておかねばならない。だったらルクソールよりもカイロのほうが、いろいろ適当な場所がありそうだ。そんなロケハンもしなかったんですか」  小檜山はミネラルウォーターのキャップをはずし、ペットボトルに口をつけてゴクゴクと音を立てながら水を飲んでいった。美保子は、ただボトルを所在なげにいじりまわしているだけだ。  フーッと息をついて、小檜山はボトルを地面に置いた。そして手の甲で口の周りを拭《ぬぐ》った。だが、動作はそれだけで、また無言の行に入る。 「火曜日のまだ暗いうちにカイロの宿をチェックアウトしたあなたがたは」  朝比奈の話がつづく。 「レンタカーでナイル川沿いにルクソールまで移動してきました。半日ドライブですよね。さぞかし窓の外に見える風景は珍しいものがあったことでしょう。ぼくみたいにパリからいきなりルクソールへ飛行機できて、それも夜中に着いた人間は、まだホテルの周りと王家の谷しか知りません。でも、十数時間のロングドライブで六百五十キロもの距離を移動してきたみなさんは、その道中で映画に使えそうな風景を山ほど撮れたはずです。劇中の人物もエジプトを旅している設定なら、なおのこと車を停めて演技もしていなきゃおかしい。そういうシチュエーションに恵まれても、セリフが決まっていないからという理由で後回しにしていたんですか。さらに……」  朝比奈の疑問指摘はとどまるところを知らなかった。 「このルクソール市内まで運転してきた小檜山さんは、東岸から西岸へ渡るのに、もっともかんたんなルクソール橋を使わずに、ローカルフェリーを利用しました。これはなぜですか」 「………」 「答えられないなら、私が代わりに答えを言いましょう。あなたは監督役の天田さんに、たぶんこんなふうにアドバイスしたんですよ。おい、天田、ナイル川を渡る地元住民用のフェリーは、観光用のとは違ってなかなか味があるから、これを使って渡ろう。絶対、いい画が撮れるぞ——どうです?」  朝比奈は口をつぐみ、小檜山の反応を待った。  小桧山はまた無言でミネラルウォーターを飲んだ。しかし、こんどは勢いあまって口から水がこぼれ、山羊鬚《やぎひげ》を伝って胸元まで濡《ぬ》らした。 「ぼくが事前にデータとして入手していたみなさんのエジプトロケに関して、おかしいぞと思ったことがもう一点あります。さっき小桧山さんに示してみせた役柄の名前と、それを演じる人の相関関係なんです」  朝比奈は、ふたりに見せるためのメモ用紙を先ほどのものに取り替えた。 【自主ホラー映画『心臓スカラベ』の配役と設定】[#「【自主ホラー映画『心臓スカラベ』の配役と設定】」はゴシック体] [#ここから改行天付き、折り返して5字下げ] 進…………ファラオとの心霊交信を試みる大学生。岡崎拓哉。 美代子……進の恋人。沖美保子。 正樹………進の親友。岡崎雅也。 [#ここで字下げ終わり]  その紙を朝比奈は指さしながら言った。 「美保子さんの役名は美代子、雅也さんの名前は正樹。こう付けられているのを見て、ぼくはなるほどいかにも大学の同好会らしいなと思ったんですよ。日ごろの本名をちょっとだけ変えた役名にしておけば、それを見ただけで演じる人間の顔がパッと思い浮かびますからね。もしもこのドラマにぼくが出演していたとしたら、朝比奈耕作という本名から、さしずめ耕助あたりになっていたんじゃないんですかね。しかし主役の名前はどうか? これがどうも変なんですよ、進というのはね。それを演じた岡崎拓哉さんの名前と何の関連性もない。拓哉さんがやるんだったら、達也とか克哉とか、そういう名前になるはずなんですよ。ほかのふたりの出演者の本名と役名の法則をあてはめればね。しかし、いきなり進です。なぜそこだけ法則があてはまらないのか? その答えは意外とすぐに見つかりました」  朝比奈はにっこり笑った。相手の意図を見抜いたという勝利の笑いだった。 「この映画に役者としては出ずに、裏方だけを務めているほかのふたりの名前をチェックしたら、そこに正解がありました。天田さんは芳樹で、これは関係ない。しかし小檜山さん、あなたはどうか。下の名前は努です、ツトム。進と努——ススムとツトム。これならば、ほかのふたりの役名の付け方と同じ法則が成立する」  カフェオレ色に染めた髪の毛をかき上げてから、朝比奈はじっと小檜山努を見据えた。 「つまりぼくが出した結論はこうです。自主製作映画『心臓スカラベ』の主役である進は、もともと岡崎拓哉さんではなく、小檜山努さんが演じるものだったのではないか。いえ、ちょっといまの言い方は正確ではなかったかもしれませんね。そういう表現では、エジプトにきてから急遽《きゆうきよ》主役の交代ドラマがあったかのようにも受け取れてしまう。そうではなくて、ぼくが言いたいのは」  朝比奈はもったいぶって深呼吸をひとつした。そして言った。 「あなたがたのエジプトロケは、最初から小檜山さんを主役としてスタートを切っていた、ということです。カイロ到着の段階からずっと、小檜山さん、美保子さん、雅也さんの三人によるドラマが撮りつづけられていたんだ。王家の谷で包帯をほどくシーンがファーストカットだったなんてことはない。カイロの町中でも、ギザのピラミッドでも、小檜山さん、あなたを主役とするドラマの撮影は順調に進行していたんです。拓哉さんがスタッフとしてどんな役割を分担していたか知りませんけど、とにかく彼は進という主役ではなく、あくまで裏方だった。主役は小檜山さんのほうだったんです」 「いくら推理作家だからといって、めちゃくちゃなこじつけはしないでほしいな。おれはね、ずっと運転していたんですよ、朝比奈さん」  ようやく小檜山が反論した。 「あのロケではおれはコーディネーターであり、ガイドであり、通訳だったんだ。まあ当時のおれのアラビア語は、どうにか買い物がこなせる程度のカタコトだったけどね。とにかくそういう裏方の仕事がめいっぱい詰まっていたから、主役を演じる余裕なんておれにあるわけないでしょ。考えてもみてほしいよな、カイロからルクソールまでぶっ飛ばして十一時間、何度か休憩をはさんだだけの強行軍は、おれひとりがハンドルを握りっぱなしだったんだ。まだ雅也も運転する自信がないっていうからさ。そういうロングドライブの運転手をさせられながら、それに加えて主役まで演じろだって? そりゃ無理でしょ」 「そんなことはありませんよ」  こともなげに朝比奈は言い返した。 「進とは、そういう役柄だったんです。つまり、エジプトに詳しくて、運転もできて、アラビア語もカタコトながら話せるという設定だったんですよ。だから、小檜山さんがその役柄を演じれば、同時にルクソールへの移動もこなしてしまえるという一石二鳥となる。ちがいますか?」 「………」 「せっかく現地の言葉がしゃべれる人間がメンバーにいるのにですよ、その人間をただ裏方の通訳だけに使うなんてもったいないことを天田監督がしますかね。エジプトロケまでするんだったら、その映画の主役には、アラビア語がしゃべれる人を抜擢《ばつてき》するのが自然な流れじゃないかなあ。そうすれば、ミイラの布を怪しげな店で買うシーンだって実際の会話を収録できるし、主人公が街角で買い食いをする楽しいやりとりも撮影できる。もしかしたら、地元の可愛《かわい》い女の子を見つけて、恋人・美代子をよそに浮気しちゃう場面も撮れるかもしれない。小檜山さんを主役にすれば、シナリオの広がりは無限じゃないですか」  コトン、と音を立てて小檜山の手元にあったミネラルウォーターのボトルが倒れた、水が白い砂地の上に拡がって、すぐに吸い込まれて消えた。 「アラビア語を使える古代エジプトマニアの大学生を演ずる小檜山さんの芝居は、このルクソールに入ってからもずっとつづきました。地元住民が使うフェリーに乗って死者の村へ向かう『小檜山』進の姿も、天田監督によって撮影されていたはずです。そして深夜の王家の谷においても、依然として小檜山さんが進の役を演じつづけていた。全身に包帯を巻かれてミイラとなってしまう場面もです」  朝比奈の言葉に、美保子がハッと息を呑《の》んだ。 「例の五時間ビデオとの整合性や、ぼくに与えられたデータとの矛盾など細かい検討は後回しにして、おおざっぱな推理の軸だけ申し上げましょう」  朝比奈の言葉は小檜山にではなく、美保子に向けられていた。朝比奈にとっては彼女の父親・沖清之が今回の調査の依頼主であり、調査の結果は小檜山にではなく、美保子のほうに告げるべきだと思ったからである。 「『心臓スカラベ』なる題名の映画は、いま申し上げたように、進という役柄は最初から小檜山努さんに与えられたものであり、それに沿って撮影は順調に進行していました。ぼくのその前提が間違っていないことは美保子さん、あなた自身がよくごぞんじのはずです。もしもこの段階ですでにぼくの推理を否定なさるなら、いまそうおっしゃってください。でも、お願いですからウソはつかないでほしい」  朝比奈は美保子の返事を待った。  しかし、彼女はサングラスをかけた顔をうつむけて何も言わなかった。 「その沈黙は、肯定のしるしと受け止めますよ。よろしいですね」  美保子の首が、かすかにタテに振れた。  朝比奈も満足してうなずいた。 「主役を演じるのが小檜山さんですから、王家の谷でミイラの布に全身を巻かれて横たわる役も、これまた小檜山さんでした。『小檜山さんの予定でした』ではなく、実際に小檜山さんが泥色に染められた包帯を全身に巻かれたのです。みなが承知している筋書きどおりに、です。ただし、その包帯を巻いたのは監督の天田さんではない。共演者である美保子さんと雅也さんのふたりが巻きました。なぜならば、それは劇中で美代子と正樹が進の不気味な実験にしぶしぶ同意して、彼の指示どおり進をミイラに仕立てる場面だったからです。もちろん、その模様は天田監督自らがビデオに収めています。本番のシーンなんですからね。そして拓哉さんは照明か音声か知りませんが、スタッフとしての役割を果たしていた。つまり、小檜山さん自身も含めて、その場にいた五人全員が『ミイラの中身は小檜山さんである[#「ミイラの中身は小檜山さんである」に傍点]』と共通して認識していた段階が間違いなくあったんです。ところが——」  朝比奈は封を切っていなかったペットボトルのミネラルウォーターのキャップをはじめて開け、ぐいと一口飲んだ。  ほとんどひとりでしゃべりづめだったから、ほんとうはもっと飲みたかったのだが、これから行なう実験のために水はとっておかねばならない。そしてキャップをまた締めてから朝比奈は、つづきを言った。 「ある段階でミイラの中身は入れ替わってしまった。小檜山さんから岡崎拓哉さんへと、です。ビデオで見る限り、小檜山さんも大柄だけど、拓哉さんも背が高かった。ふたりの身長や体格に差はほとんどないように見受けられましたから、ジャージーの上から包帯をぐるぐる巻きにしてしまえばわからない。どんな目的で、どういうタイミングでその入れ替わりが行なわれたのか、それについてのぼくの推理はあとでお話しします。それよりも重要なのは、五人のメンバーの中で、ミイラの中身が入れ替わった事実を知っていた人間と[#「ミイラの中身が入れ替わった事実を知っていた人間と」に傍点]、知らなかった人間がいる[#「知らなかった人間がいる」に傍点]、ということです。そして、この差がとてつもない悲劇を招くことになったのです」 [#改ページ]    7 心臓スカラベは語る[#「7 心臓スカラベは語る」はゴシック体] 「もしも岡崎拓哉さんの死が、現地警察の判断したとおり、純粋な事故による窒息死ならば」  いよいよ朝比奈は推理の核心へと入っていった。 「それは映画撮影の過程で偶発的に起きた不幸な事故として、あなたたちはすべてのいきさつを正直に話せたはずなんです。ミイラ役の人間が途中ですり替わっていたことなども、その理由を含めてありのままに話せたはずなんです。だけど誰もそれをしなかった。言葉がきつくて申し訳ないけれど、隠蔽《いんぺい》工作をはじめた」 「なんでそんなふうに決めつけられるんだ。隠蔽工作をしたなんて」  山羊鬚《やぎひげ》を震わせながら、小檜山が噛《か》みついてきた。 「見てきたようなデタラメを言わないでくれ」 「デタラメではありませんよ」  朝比奈は、美保子から小檜山に向き直って答えた。 「いまぼくが順を踏んで推理したでしょう。カイロに到着してからルクソールへ移動するまで、あなたがたは『心臓スカラベ』なるホラー映画の本番撮影に着手していないはずがない。にもかかわらず、五時間にわたって連続撮影された事故発生時の記録が最初のカットだと、とうてい信じられない主張をしている。それがなによりの隠蔽工作じゃありませんか」  朝比奈の語調に鋭さが増してきた。 「カイロやギザやルクソールで撮影した本番テープがあるのにないとウソをついたのは、それらのテープに進役を演じていた小檜山さんが写っていたからです。つまり、ミイラ役の人間が途中で入れ替わっていた事実がバレてしまう。日本語のわからないエジプトの警察はとりあえずだませるかもしれないが、日本の警察が介入してきたら、映像記録からそこのところを突っ込まれてまずい。だから四人は——ミイラのすり替わり計画を知っていた人間も知らなかった人間も——一致協力して、撮影済みテープの隠匿または消去処分に同意したんです。そして、最初から拓哉さんが進という主人公役を演じる予定だったことにしたんです。これ以上ややこしい展開は避けようと」 「ややこしい展開?」 「ええ」 「なんだよ、それ」 「警察に疑われないように、ですよ」 「なにを疑われないようにだ」 「そこまでいちいち答えなければいけませんか」 「ああ、答えてほしいね」 「ミイラ役の不自然なすり替えがあったと知られては、警察当局に、これが事故でなく殺人事件ではないかとの強い疑いを持たれるからです。それをあなたたちは恐れた。なぜなら、残された四人全員が、これはたんなる事故ではないとうすうす察知していたからです。もっとも、犯人はうすうすどころか、明確に真相を知っているわけですが」 「犯人って、誰だよ」 「ねえ、美保子さん」  小檜山の最後の問い返しは無視して、朝比奈はふたたび沖美保子に語りかけた。 「小檜山さん同様、あなたも拓哉さんに死の罠《わな》を仕掛けた人物を知っていますよね。ぼくが気負って語るまでもなく、あなたにとっては少しも意外ではない結論でしょうが」  朝比奈は淡々とした口調で言った。 「岡崎拓哉さんを窒息死に至らしめた犯人は、あなたのお父さんが懸念されているとおり、兄の雅也です。いちおう人を死に至らしめたわけですから、呼び捨てにさせてもらいますけどね」  美保子の格別の反応はなかった。朝比奈が言ったとおり、美保子にとっては予測済みの展開だったからである。 「雅也は、ミイラが出てくるホラー映画の撮影という設定を巧みに利用して、ミイラ役の人間を殺す方法を考え出しました。そばでビデオが回っていてもバレないような方法をね。ただし、いいですか、ただし、です」  朝比奈は念を押した。 「雅也は、決してあなたを奪うために血のつながった実の弟を殺したわけではないんです。いま申し上げたように、彼の狙《ねら》いはミイラ役の人間を殺すことだった。そのために日本にいる間から計画を練ってきたんです。拓哉さんではなく、本来の主人公を殺すつもりだった。すなわち……」  そこで朝比奈は、また小檜山に視線を転じた。 「あなたをです、小檜山さん」 「正直申し上げて、動機はわかりません」  そこまで見抜かれているのか、という表情の小檜山を見やりながら、朝比奈は言った。 「なぜ雅也があなたを殺そうとしたのか、その事情はあなたに教えていただくよりない。ともかく雅也は、いっしょうけんめい考案したトリックを用いて、小檜山さんを異国の地で殺そうとした。日本の警察の手が及ばないところだから、なんとかなるという甘い見通しがあったのかもしれません。実際、殺害のメカニズムじたいは計算していたとおりうまくいった。  ところが、なんということか、殺害計画を実行に移す直前になって、ミイラの中身は小檜山さんから拓哉さんにすり替わっていた。自分の弟にです。そのことは雅也も知らなかったんです。全身を包帯に包まれたミイラの体格からみて、小檜山さんだと信じて疑わなかった。そのとき自分の弟がその場に姿を現していないのを、さほど不思議とも思わずに、目の前のミイラに死の罠を仕掛けてしまった。それがとてつもない悲劇のはじまりでした」  そこで朝比奈は話を一時中断した。日本語のざわめきが聞こえてきたからである。そちらへ顔を向けると、ツアーバッジを付けた日本人観光客の一団が、旗を掲げた女性添乗員のあとについてぞろぞろとやってくるところだった。全員中高年の男女で、若者の姿はひとりもない。  ツタンカーメンの呪《のろ》いとか、黄金のマスクとか、観光客が喜びそうな言葉を並べ立てる添乗員の声が耳に飛び込んできた。中には、地面に座り込んで深刻な話をしている朝比奈たちをじろじろと見ていく者もいたが、一行が通り過ぎるまで、朝比奈も小檜山も美保子も無言でじっとしていた。  やがて団体がツタンカーメンの墓のほうへ去っていったのを見計らって、また朝比奈が口を開こうとしたが、そのとき小檜山が、それまでかけていた黒いサングラスを突然はずした。それは一種の降伏のしるしのように朝比奈の目には映った。これ以上、この推理作家に隠し事をしてもムダだと悟った表情がそこにあった。 「朝比奈さん」  これまでにない神妙な口調で、小檜山が言った。 「おれも見た目の印象ほどバカな男じゃない。だから取り引きしましょう」 「取り引きとは?」 「第三者にここまでズバズバと内情を見抜かれてしまったら、なんだか隠し事をしているのがバカバカしくなってね」  山羊鬚をしごきながら、小檜山は自嘲的《じちようてき》な笑いを浮かべた。 「だから、あなたが知りたいデータはおれが出します。その代わりに、逆に教えてもらいたいことがある。それは、雅也がどうやって拓哉を殺したのか……っていうか、どうやっておれを殺そうとしたのか、その方法ですよ。三年経って、いまだにそれがわからない。わからないから、こっちはヤツを怪しんでも面と向かって非難はできない。だから向こうもおれを侮《あなど》って、今回みたいに美保の動向を探ってくれという感じで、平然と電話をかけてくるんだ」 「いいでしょう、そういう取り引きならば」  朝比奈は納得してうなずいた。 「じゃあ、先に小檜山さんがぼくの質問に答えてください。当時はおたがいに学生同士だったというのに、あなたが雅也さんに命を狙《ねら》われるような事情って、どんなものがあったんですか」 「まともな神経のヤツなら、そんなことで他人の口を永遠に塞《ふさ》ごうなんて思わないはずだけどな」  小檜山は下唇を突き出して肩をすくめた。 「でも、おれもいけないといえば、いけないんだよね。なにしろ小檜山努は口の軽い男なんだって、日ごろから積極的に吹聴していたから。そりゃあ秘密を握られた人間としちゃ、生きた心地がしなかったかもしれない」 「その秘密とは?」 「万引きッスよ」  小檜山は、あっさりと言い放った。 「エジプトロケに出る三週間ほど前だったかな、ふたりで秋葉原に行ったんですよ。電気街にね。そして、大型量販店じゃなくて、路地裏を入ったところにある間口の狭い小さな店に入ったとき、やつは手のひらサイズのデジタルビデオカメラを一台くすねたんです。店頭展示品だけど、盗難防止用の鎖が付いてないやつがあったんですよ。それをプロじゃないかと思うような素早い手さばきでパッと手持ちの袋に」  小檜山の話に美保子がびっくりした顔になっているので、朝比奈はまだサングラスをかけたままの彼女に問い質した。 「美保子さんにとって、その話は?」 「初めて聞きました」 「だろうな、口の軽いこのおれが、いままで誰にも話していないんだから」  美保子に直接話しかけてから、小檜山は朝比奈に向かってつづけた。 「そこは警報装置付きの防犯ゲートなんか備えていない、ガードの甘い店だったもんで、あっさり成功しました。ただし雅也は、店の人間だけでなく、連れのおれにも気づかれていないと思っていた」 「ところがあなたは見ていた」 「ええ」 「そして、見ていたことを本人に告げた」 「そのとおりです。すると雅也は顔色変えてね。小檜山さん、絶対誰にも言わないでください、お願いします、ってすがりついてきましたよ」 「お願いします、という言い方ですか」 「あいつはおれと同じ三年だったけど、こっちが三つも上だからね、タメ口なんて利けないでしょ」 「なるほど」 「でも、おれとしちゃ、万引きの瞬間を見たときはかなりショックでしたよ。岡崎雅也の生真面目なキャラにぜんぜん似合わない行動だったから。それに、そばにおれがいるのにやるかよ、って感じもあったし、ホントあきれましたよ。絶対バレるわけがないという、その傲慢《ごうまん》なまでの自信も、どこかバランスが崩れているみたいで恐ろしかった」 「それで?」 「わかったよ、言うわけねえよ、と答えたんですが、雅也はしきりに疑うんです。小檜山さん、言うんでしょ、絶対言うんでしょ、雅也が万引きやったって真っ先に美保子に言うんでしょ、ってね。いかに口が軽いおれでも、そんな迫られ方をしたら不気味でかえって秘密を守ろうとしますよ。でも……なんかイヤな予感がしたのも事実だった。エジプトロケで、おれが主役となってミイラの格好をすることは出発前から決まっていたんで、おれがミイラの状態で身動きできなくなった状況を利用して、雅也が妙なことを仕掛けてくるんじゃないかと、それが心配だった」 「妙なことというのは?」 「永遠の口封じですよ」 「そこまで考えたんですか」 「被害妄想のように思えるでしょうけど、あのときの雅也の目は飛んでいた」  小檜山は、砂漠の直射日光を浴びているにもかかわらず、ゾクッと身を震わせた。 「目に異常な光が宿っていた。おしゃべりの小檜山に秘密を握らせたままだと、いつ自分の人生を潰《つぶ》されるかわからない、という怯《おび》えが見えていた……」 「そこであなたは、ミイラの場面を演じるのが恐くなって、こっそり拓哉さんとすり替わることにした」 「……ま、そうです」  美保子がじっと聞いている手前、バツが悪そうに小檜山は認めた。そして彼は、ミイラのすり替え計画をどのように実行したかを語った。  小檜山が計画を打ち明けたのは、監督の天田芳樹と、雅也の弟の拓哉のふたりだった。ただし、雅也の万引き事件が背景にあるという事情は一切伏せた。狙いはあくまでふたりの共演者——美保子と雅也の驚く表情を撮るためだと説明した。小檜山が出てくると思って包帯を解いたら、そこから拓哉が出てくれば、とくに美保子のほうは悲鳴をあげるかもしれない。その驚きは、人工的な芝居では絶対出せない味だから、うまくいったらそれを本番用に使おうと監督の芳樹を説得し、小檜山とほとんど体型が同じ拓哉を替え玉にすることで、彼の了解も取り付けた。  まさかその計画の先に自分の死が待っていようとは想像もしていない拓哉は、兄を驚かすプランを単純に面白がった。  運命の夜、最初のミイラが完成したのが午後十時半。これは朝比奈が想像していたとおり本番の撮影を兼ねたもので、劇中の美代子と正樹を演じる沖美保子と岡崎雅也が、進を演じる小檜山努の身体に包帯を巻いてミイラに仕上げた。この段階で美保子と雅也は、ミイラの中身が変わるとは夢にも思っていない。  小檜山ミイラが横たえられたところで周囲に三本のロウソクを灯し、固定撮影をするビデオカメラを設置して四人はいったんその場を離れた。そして芳樹から、小檜山が動けないので、おまえが代わりに運転してくれと言われた雅也は、美保子を乗せてレンタカーでナイル西岸の夜景を撮りに行く。さすがに車の通行もめっきり減った夜間なら、彼もエジプト国内初運転をする気になったとみえた。  一方、拓哉と芳樹は自転車をこいで東岸カルナック神殿周辺の夜景撮影に出かけると見せかけて、すぐさま小檜山ミイラのもとへ戻った。そして彼の包帯をほどき、代わりに拓哉がミイラ役になる。  すばやく、そしてかなりしっかりと包帯を巻いたのは監督役の芳樹で、ほんの数分だけミイラとなって束縛されていた小檜山は、その包帯巻きには加わらなかった。表向きには、芳樹の手際がいいからまかせたと言っていたが、じつは良心の呵責《かしやく》があって、拓哉の身体を拘束する作業に加われなかったのだ。もしもほんとうに雅也が小檜山を殺すつもりでいたなら、このすり替えによって、殺されるのは小檜山ではなく拓哉になる。小檜山の助かりたい一心が、雅也に実の弟殺しを強いることになるのだ。さすがに小檜山は気が咎《とが》めた。  芳樹によってどんどんミイラの姿に変身していく拓哉を見下ろしながら、小檜山は、雅也の自分に対する殺意などが存在しないことを祈った。おれが被害妄想に陥っていただけだったなと、あとでこっそり苦笑するときがくることを祈っていた。  拓哉のミイラが完成したところで、芳樹は固定ビデオカメラを巻き戻して、テープの先頭から改めて録画し直した。これが十一時〇七分十三秒だった。  このあと小檜山は、五時間後にミイラの布がほどかれる場面まで姿を消していなければならない。そこで彼はとりあえずは芳樹といっしょに自転車でナイル東岸へ移動した。真の事情を知らない芳樹は、午前四時すぎにやってくる「開けてびっくり」の瞬間を想像してはニヤニヤ笑っていた。あいつらびっくりするだろうなあ、と小檜山にも話しかけるが、小檜山は気が気ではない。  するとしばらくして芳樹が、『心臓スカラベ』をミイラの胸に置き忘れたことを思い出した。これが小檜山にとっても、拓哉にとっても、そして雅也にとっても運命の分かれ道だった。芳樹は、小檜山を東岸に残したまま、自分ひとりで自転車をこいで西岸へ戻り、トランシーバーで雅也たちを呼び出して、スカラベをセットするために三人で現場へ戻ると言いだした。芳樹に言わせれば、雅也と美保子がミイラの中身のすり替えに気づくかどうかの事前テストにもなるというのだが、小檜山からすれば、わざわざ雅也をミイラのそばに連れてくることになるのが心配だった。  そして——  その不安は的中した。 「万引きを目撃され、それをいつバラされるかわからない。だからいつか小檜山さんを殺そうと狙《ねら》っていた——そういう雅也の心の動きがあったと聞かされても、ぼくは格別驚きませんね」  ひとしきり小檜山の説明が終わると、また朝比奈が発言の主導権を握った。 「なぜなら、殺意の動機と殺害の方法のバランスがとれているからです」 「動機と方法のバランス?」  小檜山はいぶかしげに問い返した。 「なんですか、それ?」 「たぶん小檜山さんも、無意識のうちに感じていたんじゃないかなあ。万引きの一件が動機ならば、もし自分が消されるとしても、まっとうな方法ではないだろうと。だからミイラになったときが危ないと予感したんですよ」 「………」 「たとえば、あなたは雅也さんから刺し殺されるような気がしましたか」 「いや」 「金属バットで襲いかかられる気がしましたか」 「そんなことはないね」 「では、首を絞められると思いました?」 「それもない」 「じゃ、そういう直接的な殺害方法はないと言い切れる確信はどこからくるんでしょう」 「う〜ん」 「わかりませんか。仮に岡崎雅也があなたと美保子さんの愛を争っていたなら、そしてそこに激しい憎しみが湧《わ》いたならば、もうちょっとストレートな殺害方法が予想されても不思議ではない。刺殺、撲殺《ぼくさつ》、絞殺、あるいは轢殺《れきさつ》——車で轢《ひ》くことですけどね——そういう一般的な怨恨《えんこん》殺人の手法がとられたでしょう。でも、今回の雅也のあなたに対する感情は、万引きの事実を人にバラされるかどうかが心配という、非常に姑息《こそく》な心理から発している。感情としては、憎悪というよりも不安が大きいわけです。  人間というのは自分でも無意識のうちに、損得勘定をする生き物でね、殺意の動機において憎悪よりも不安の要素が多いと、殺害方法も非常に遠回しなものになりがちなんです。殺意を湧き起こすにはかなり弱い動機だと自分でもわかっているから、決して無茶はしない。この程度のことで人を殺す場合は、うまくいって儲《もう》けものという、やや逃げ腰のスタイルをとるものなんですよ。  特定の人間を殺すとき、バットで殴り殺すのと毒を使って殺すのとでは、背景にある憎悪の度合いが違う。撲殺の場合は憎しみの度合いが大きいけれど、毒殺の場合はむしろ利害関係がからむケースのほうが多い。憎しみを晴らすよりも、確実に相手を殺し、自分の身の安全も確保せねばならないという冷静な計算が働く場合は、加害者は撲殺より毒殺を選びます。それと同じで、岡崎雅也が選んだ殺害手段は非常に臆病《おくびよう》なものでした。なるべく自分が直接的に関わらなくてすむようにした。なにしろ最後のとどめは自分で刺さずに、人に任せるやり方なんですから」 「最後のとどめを人に任せるって?」 「ダイナマイトの導火線は自分で引いておくけれど、そこに火を点けるのは他人にやらせるようなシステムですよ。火を点ける人は、まさかその線がダイナマイトにつながっているとは思いもしないような舞台装置を準備しておく方法です。そういうやり方で雅也はあなたを殺そうとしたけれど、運命のいたずらにより、誤って自分の弟を殺してしまった。そのもって回ったやり口が見えたからこそ、ぼくは雅也の動機は、怨恨などではないだろうと予測していたんです」  朝比奈は納得の表情を浮かべて小檜山を見た。 「ですから、いまあなたから万引きの話を聞いて、さもありなんと思いましたよ。決して、そんなことで人を殺そうと思うわけがないだろう、なんて反論はしません。じゅうぶんすぎるほど理解できます」 「では、その導火線の点火を人に任せる方法というのは、どういうものなんだ」 「具体的に実験しましょう」  朝比奈はガーゼでできたハンカチを一枚取り出した。 「素材は微妙に違うけれど、これを当日拓哉さんが顔に巻きつけられていた包帯だと思ってください」  そして朝比奈は、ガーゼのハンカチを三度ほど折って短冊型にして小檜山に手渡し、それで口と鼻を覆うように言った。 「いいですか、ここで実験の便宜上、あなたは口では自由に息ができないものと仮定します。ですから口で呼吸はしない条件でやりましょう。ただ、ぼくの問いかけに返事をするのはかまいません」  朝比奈のハンカチで顔の下半分を覆ったまま、小檜山はうなずいた。 「いまのところ、三重になっていても空気は自由に通りますね。では、口のあたりを水で濡《ぬ》らしたらどうでしょうか」  朝比奈は自分のペットボトルを開けて、小檜山の口もとを覆うハンカチの唇のあたりに水を注いだ。 「例の五時間ビデオにも記録されていましたが、砂漠に長時間横たわっていては喉《のど》も渇くだろうということで、美保子さんがミイラに水を補給してやる場面がありました。午前零時すぎのことでしたね」  美保子はサングラス越しにもわかる不安げな表情で、朝比奈のやることをじっと見ていた。小檜山の唇あたりを覆うハンカチの上に水が注がれ、その水分が毛細管現象で鼻のほうへも拡がってゆく。 「ぼくは最初、包帯に染みわたった水分のせいで呼吸が困難になったのではないかと思ったんです。……でも、どうですか、小檜山さん」  小檜山は布地の下からこもった声で答えた。 「ちょっと空気の通りが悪くなったけど、鼻のところに染みてきた程度では不便はないな」 「そうですね、ガーゼハンカチや包帯は非常に通気性に富んでいますから、この程度のことで呼吸困難にはならない。ではもう一枚、同じタイプのガーゼハンカチがここにあります」  朝比奈はポケットから、新しいものを取り出した。そしてさっきと同じように三つ折りにしたが、そのさいに白い粉末状のものを折り込んだ内側に撒《ま》いた。  それからさっきと同じように小檜山に渡し、鼻と口を覆わせてから、また口もとにペットボトルから水を注いだ。今回も鼻のあたりには直接はかけない。 「さあ、こんどはどうでしょう」 「べつにこんども……あれ……ちょっと待った」  小檜山の目に驚きが浮かんだ。 「朝比奈さん、鼻のところには水、かけてないですよね」 「ええ、口もとだけです」 「でも、鼻が……だめだ、こりゃ。口を閉じてしまったら鼻で息ができない。ぜんぜんできない」  小檜山はしばらく鼻だけの呼吸を試みていたが、最後にプハーッと大きな息を口でしてハンカチをはずした。 「どうなってるんだ、これ」 「ハンカチを広げてみてください」  朝比奈に言われてガーゼのハンカチを広げると、そこには半透明のぬるぬるしたゼリー状のものがこびりついていた。 「なんだ、これ」  指先にとってこすり合わせながら、小檜山はそれを目の前に近づけてしげしげと見た。 「高分子吸水材ですよ」  朝比奈が答えた。 「いろいろな素材がありますけど、それはポリアクリル酸ナトリウムと呼ばれるものです」 「なんか白い粉を撒いているのが見えたけど、それがそうなんですか」 「ええ。乾いているときはただの粉末だけど、水を与えられると樹脂構造の中からナトリウムイオンが排出されて、ポリマーの網目の電子反発が多くなり、網目が拡がってそこに水が大量に入り込む隙間《すきま》が与えられる。これが高分子吸水材の基本的な仕組みで、この特性を利用してさまざまな用途に使われています。食品用保冷材、手術用シート、湿布材、鮮度保持剤。ちなみにぼくが入手したのは、子供用のおもちゃからです。この粉末に色素で色をつけ、水を加えれば自由にままごと用のおかずが作れる」  小檜山は指先にこびりついた高分子吸水材を見つめながら、朝比奈の説明に聞き入っていた。 「ほかにももっと代表的な用途がありますよね。女性ならすぐおわかりでしょうが」  美保子をチラッと見て、朝比奈は言った。 「生理用ナプキンがそうです。あるいは紙おむつ。同じ理屈で農業の土壌保水用にも使われます。だから、こうした高分子吸水材の特徴は農学部にいた岡崎雅也なら、当然よく承知していたはずだし、殺人の小道具として使うにふさわしい形態のポリアクリル酸ナトリウムを入手するのもたやすいことでした。門外漢のぼくだって、こうやって容易に手に入れられたんですから」 「じゃあ、あいつは弟の包帯の隙間に、そのポリなんとかってやつを……」 「そうです。ビデオにも写されていたでしょう。午前零時過ぎに三人でミイラのところに近づいた彼は、呼吸を楽にしてあげようという名目で、包帯の隙間を緩めるような感じで指を突っ込んでいた。でも、それは呼吸を楽にしてやるどころか、まったく逆の目的があったんです。手のひらに握っていたポリアクリル酸ナトリウムを、すばやく鼻の上を覆う包帯の合間に散らした。つまりダイナマイトの導火線を仕掛けたわけです。こうすれば、そのあと美保子さんが点火役を引き受けることになる。彼女がミイラ役の人間に水を飲ませようとしていたわけですからね。その水が高分子吸収材を膨らませ、やがて鼻での呼吸を不可能にした。でも美保子さん……」  朝比奈がきいた。 「ミイラとなって横たわっていた拓哉さん——ではなくて、小檜山さんだとあなたは思っていたわけですが——その彼に、喉《のど》が渇くだろうから水を飲ませてあげようとしたのは、あなた自身の発案ですか。それとも誰かに言われたんですか」 「雅也さんに言われました」  硬い声で美保子は答えた。 「ふたりで車にいるとき、私が持っているスポーツ用の給水ボトルを見て、それで飲ませれば包帯をしていても隙間からストローを突っ込めるだろうから、って」 「彼が提案してきたんですね」 「はい」 「なんてこった」  小檜山は目をむいた。 「それじゃ、美保がミイラ役を窒息死させる直接の実行者になっちまうじゃないか」 「そこが岡崎雅也の狙《ねら》いだったんですよ。導火線は仕掛けるけれど、点火役は美保子さんに任せる。万引きを見られた事実を消したいという程度の理由から生じた殺意ならではの、自分の手を汚さない殺人です」 「ひでえ野郎だ」  小檜山はアゴから伸びた山羊鬚《やぎひげ》を掻《か》きむしった。 「この三年間、あいつのことを怪しい怪しいとは思っていたけど、そんな仕掛けを企んでいたなんて、考えもしなかった。……許せねえ、あいつは人間じゃない。いますぐ日本に飛んで帰ってぶっ殺してやりたいぐらいだ」 「しかし、彼は彼なりに報いは受けたわけですよ。ロウソク三本の明かりの中で、おそらく精神的にもかなり緊張して仕掛けをセットしたんでしょう。ミイラのすり替わりにはまったく気づかなかった。包帯の下にいるのは小檜山さんだと信じて疑わず、まさか自分が弟を死の世界へ追い立てているとは夢にも思わなかった」 「じゃ、スカラベの裏返しはどういう意味なんです」  小檜山がきいた。 「あの行動は何だったんだ」 「先の例で言うならば、ダイナマイトが爆発したのか、それとも不発だったのかを確かめようとしたんですよ。スカラベの置物を利用して」 「え?」 「高分子吸水材をすばやく挟み込んだ包帯に、美保子さんの与えた水が広がっていくのを見ながら、岡崎雅也はそれこそ喉がカラカラになる気分だったでしょう。このまま計算どおり小檜山さんが窒息死してくれるのかどうか。はたしてポリアクリル酸ナトリウムが殺人の小道具として機能してくれるかどうか、非常に不安だった。  また、計画が成功するにしても失敗するにしても、包帯の合間にそういう高分子吸水材が仕掛けられていることがバレては何にもなりません。そのへんは雅也なりの計算はあったはずです。ビデオ映像を見ると、あの夜はロウソクの炎を吹き消すほどではないが、夜風が吹いていた。その風が巻き上げた砂塵《さじん》が、水分で濡《ぬ》れた包帯に付着して、ちょうど小檜山さんの白いズックが砂漠の色に染まっているように、もともと泥色に染められた包帯がますます砂で汚れ、半透明の高分子吸水材の存在をわかりにくくしてくれるはずです。しかもこの乾燥した空気ですから、不自然な水分の存在がいつまでも目立つようなことはない。水を利用した殺人計画にとって、ルクソールのような乾燥した土地は、まさにその証拠を大自然がぬぐってくれる働きもあった。  さらに午前四時過ぎの撮影では、出演者である雅也自身がハサミを持って包帯を切りに行く設定になっていましたから、彼としては計画が成功した場合に備え、証拠となる鼻や口もとの包帯を真っ先に切り取って、それを処分するつもりでいた。たとえあとで、包帯の一部がないと言われても、風でどこかへ飛んでいってしまったといえば疑われないでしょう。  けれども、そこまで段取りをきっちり考えてあっても、雅也は不安だったはずです。だから、ほんとうにミイラが息絶えたのかどうか、目安になるものが欲しかった。それで、重要な小道具の心臓スカラベを逆用することを思いついた」  沖美保子と小檜山努が見つめる中、朝比奈は問題の夜の出来事を一気に暴いていった。ただし、最後の切り札はまだ手元に残して[#「最後の切り札はまだ手元に残して」に傍点]……。 「いったん去りかけたのに、また現場に戻った雅也は、もちろん岩陰に固定されたビデオカメラが回りつづけていることも知っていたはずなのに、大慌てといった様子でミイラの胸もとのスカラベをひっくり返しました。その意味合いはじつに単純です。『死者の書』第三十章を刻んだ平らな腹部を下にして載せれば、スカラベは安定している。しかし、コガネムシの形をしたそれは、裏返しにすると丸まった背中の部分が下にくるわけで非常に不安定です。タテにまっぷたつに割ったゆで卵を、断面のほうを下にしてテーブルに置けばきわめて安定的だけれど、丸いほうを下にしてテーブルを揺らせば、その動き以上にゆで卵がフラフラ揺れるのと同じです。だから身動きのとれないミイラでも、苦しみながら必死に身体を震わせれば、その振動に応じてスカラベは大きく揺れます。もしかすると転がって地面に落ちるかもしれない。雅也はスカラベを裏向きに置くことで、その下にある『もの』の状態を知る目印にしようと考えたのです。ようするに彼は、小檜山さん、あなたが……」  朝比奈はまっすぐ小檜山を見つめた。 「まだ苦しんでいるのか、それともすでに息絶えて静かになったのか、あるいは何事もなく正常な呼吸をしているのか、確かめずにいられなかったのです。その微細な反応の増幅装置として、裏向きにしたスカラベの不安定さを利用しようとした。しかし、たんに様子見に戻ったのでは怪しまれるので、もっともらしいスカラベの呪《のろ》いなどをデッチあげた。そして三人でふたたびミイラのそばに行ったんですが、近づいてみた雅也は、直感的にすべてが終わっていたことを悟った。でも、ほかのふたりの手前、スカラベを裏返す動作だけは予定どおりやらなければならない。そこで彼は、ミイラ役の人間が死んでいるのを知りながら近づいていった。いくら包帯越しとはいっても、自分の仕掛けた罠《わな》で悶絶《もんぜつ》しながら死んだ人間のところへ近づかねばならないのです。それで、恐ろしさのあまりあんな慌て方になったんです」  小檜山が唸《うな》った。朝比奈の整然とした論理と、それから彼が明らかにしていった岡崎雅也の邪悪なトリックに。 「もしも最初からスカラベが裏向きに置かれていれば、その揺れ方から、断末魔の苦しみがビデオにも記録されたかもしれません。しかしスカラベの目印なしでは、超広角レンズによって距離感が誇張された映像の中では、ミイラのかすかな動きは読みとれない。だからビデオテープを検証した地元警察も、どの時点で拓哉さんが息絶えたのか、それはわからなかった」  朝比奈はペットボトルに残っていたわずかな水を飲み干してから、大きなため息をついた。 「でも、超広角レンズゆえにミイラの姿がクローズアップされなかったのは、不幸中の幸いといったほうがよいかもしれないんです。また、死ぬ前にスカラベが裏向きに載せられなかったのも、あとに残された人間にとっては幸いだったと言えるでしょう。高分子吸水材によって呼吸の道を封じられた拓哉さんが、身動きひとつできない状況でどれほど苦しんだのか、その想像を絶する苦痛を、スカラベがぐらぐらと揺れながら伝えてきては……そしてそれがビデオの映像にはっきり記録されていては、あまりにも見る者がつらいではないですか」  何かに耐えるように唇を噛《か》んでいた美保子が、ウッと軽くうめいた。サングラスの下から涙が頬《ほお》を伝って流れ落ちてくるのが見えた。 「許せねえ」  美保子の涙を見た小檜山が、またつぶやいた。 「雅也の野郎、なんてことをしてくれたんだ。あいつのおかげで、美保は自分の手で最愛の拓哉を殺したことになるんじゃないか」 「ただし、同時に彼も、自分のせいで弟を殺してしまったという衝撃の運命を知ることになるわけです。弟ではなく小檜山さんが合流してきたのを見たとき、彼の衝撃はどれほどのものだったでしょう。そして包帯を切って実際に自分の誤ちを確認するまでの間の恐怖は、いかばかりのものだったか」 「それはそうだけど、だからといって、雅也に同情する気持ちなんてさらさら起きないね」  山羊鬚を震わせて、小檜山は怒った。 「そんな残酷なことをやっといて、三年経ってまた美保にプロポーズするなんて、どういう神経してるんだ。あの野郎、けっきょく弟を殺してしまった罪の意識なんて、まったくないじゃねえかよ。しかも、さっきも言ったけどさ、殺そうとしたおれにまで美保の行動の情報提供を申し出てくるなんて、どういう厚かましさなんだ」 「小檜山さん」  朝比奈は静かに言った。 「あなたのいまの疑問というか不満に対しては、これからちゃんと答えを出して差し上げますよ」 「え?」 「三年経って、雅也さんが美保子さんに改めてプロポーズしてきた理由をです。これは美保子さんにとって非常に……」  朝比奈はその先を口にすることを一瞬ためらったが、やがて意を決して言った。 「非常にショッキングで、ケタはずれに恐ろしい狙いが秘められているとしか、ぼくには思えないんです」 [#改ページ]    8 封印された結末[#「8 封印された結末」はゴシック体] 「いったいどういうことなんですか、朝比奈さん」  自分の車に戻った小檜山努は、運転席に座ったまま両手を天井につくほど高く上げて大きな不満の意を表明した。 「岡崎雅也の三年目のプロポーズに関する恐ろしい事実を教えてくれると言った舌の根も乾かないうちに、やっぱりこれ以上話をするのはやめるとはどういうことです。そして、今夜のホテルをキャンセルして、美保のために日本へ帰れるいちばん早い便をとってやってくれとはどういうことです。そりゃね、宿のキャンセルやエアの手配ぐらいお安い御用だからやってあげますよ。だけど、おれの気持ちも考えてくださいよ。拓哉の事件に関しては、おれは野次馬じゃない、当事者ですよ」 「わかってます」  短く答える朝比奈は、助手席ではなく、後部座席に沖美保子と並んで座っていた。彼は推理を語っていた途中で、急に立ち上がって車へ戻ろうと言い出したのだ。 「この三年間、おれは中途半端な気持ちでずっと過ごしてきた」  小檜山は言った。 「観光客を王家の谷に案内するたびに、あの夜の悲劇を思い返さない日はなかった。それが朝比奈さんの推理のおかげでどうにか事の全貌《ぜんぼう》が見えてきた。そして、あとは雅也がいまどういう心境でいるのかという部分だけが残された。それについて恐ろしい事実ってやつを披露してもらえると思った。その瞬間に、やっぱり話すのはやめたとはひどいじゃないですか。長い推理小説をずっと読んでいって、謎解《なぞと》きのいちばん重要な部分がはじまるところで、いきなり本を取り上げられた読者の気持ちになってみたらどうです」 「それはわかるんですが」 「芳樹だってねえ、あいつにだって真相を知る権利がありますよ」  小檜山は食い下がった。 「彼は大学を卒業後、映画のSFXを学ぶために、いまロスにいるんですけどね、拓哉の死が事故扱いされているかぎり、彼に直接責任がある格好になっているんだ。包帯を巻いたのは芳樹だから。彼が日本国内に仕事を求めなかったのも、やっぱりその件で自責の念があって、周囲の目も気にしているから海外へ出ていったんだ。あいつもそういう意味じゃ、犠牲者のひとりなんだ。そして朝比奈さんが解き明かしたように、すべては雅也が引き起こした事件だったら、芳樹もすべての真相を知る権利がある」 「おっしゃることはよくわかります」 「わかるんだったら、もったいぶらないでぜんぶ教えてくださいよ。思わせぶりなのは小説の中だけにしてもらいたいな」 「しかしですね……」  また日本人の団体観光バスが一台、王家の谷に到着したのを窓越しに見ながら、朝比奈は重苦しい声で言った。 「やっぱり、ぼくは結果に責任が持てないんです」 「結果に責任が持てないとは?」 「ぼくの出した結論を、美保子さんが知ることによって巻き起こる事態に対する責任ということです」 「よくわかんないな、意味が。……なあ、美保」  小檜山は運転席から半身をひねって美保子に呼びかけたが、美保子は感情を黒いレンズの奥に隠したまま返事をしなかった。 「おまえのオヤジさんが朝比奈さんに調査を依頼したのは、真相をすべて明らかにするためだったわけだろ。それも中途半端なものじゃなくて、百パーセント明らかに」 「………」 「ねえ、朝比奈さん」  美保子が返事をしないので、小檜山はまた朝比奈に矛先を向けた。 「雅也がこいつにプロポーズをしている事実を忘れないでくださいよ。殺人者が美保を花嫁にしようとしているんだ。そんな危機的な状況にあって、あなたが雅也に関して読みとった事実を隠すのは問題が多すぎる」 「そうじゃないんだ、小檜山さん。ぼくの気持ちはこういうことです。美保子さんも聞いてください。ぼくは、美保子さんのお父さんにはすべてを語ります」  美保子のサングラスがピクンと動いた。 「そのぼくのレポートをどう扱うかについては、沖さんに、あなたのお父さんに一任したいということです。沖さんがその内容を美保子さんにも、そして小檜山さんたちにも知らせるべきだと考えるなら、そうなさればよい。美保子さんが知るにはあまりにも衝撃が大きすぎると思われるのだったら、すべてを封印されればよい。もちろん、ぼくは知り得た秘密を守り通します。ですから美保子さんも、これ以上のことを知りたければ、ぼくの口から直接ではなく、帰国後お父さんから聞いてください」 「どうも納得がいかないな」  ハンドルをバンと叩《たた》いて、小檜山は言った。 「なんだか、おれの知らないところで、勝手に真犯人扱いされそうな予感がするよな。推理小説でよくある、逆転また逆転ってやつでさ。犯人は岡崎雅也と思いきや、じつは小檜山努でした、なんて報告が美保のおやじさんに上がるんじゃないのか」 「では、少しでも納得がいくように、これだけは言っておきます。今回ぼくが小檜山さんを問いつめて白状へと追い込むまで、あなたたち残された四人がずっとつきつづけてきた嘘《うそ》がある。つまり、死んだ岡崎拓哉さんは土壇場の替え玉であって、本来、そこに横たわっているべきは小檜山さんのほうだったという事実を、あなたたちは撮影済みのテープを処分してまで隠そうとした。ぼくは、そこの部分を決して軽くみていませんからね」 「………」  意外にきつい朝比奈の言葉に、小檜山が静かになった。 「ぼくが事前に得たデータでは、火曜日の午後十一時に岡崎拓哉さんが天田さんによって包帯を巻かれたことになっているけれど、小檜山さんが明らかにしたように、実際の時間はそれとは異なっていました。すり替えの時間があったからです。そういう虚偽のデータを四人の統一見解として世間に出すことにより、あなたたちはミイラの中身がすり替わっていたという事実を、三年にわたって外部に隠しつづけてきたわけです。  そんな嘘をつきつづけてきた理由に関して、ぼくはあなたがた四人が、これは単純事故死ではないと薄々感づいていたからだと推測しました。そこへさらに複雑な構図を持ち込むことは、捜査当局などの本格的な介入を招き、誤認逮捕などの事態を招くかもしれない。だから、できるだけ単純な事故ですませてしまおうと」 「おっしゃるとおりですよ」  小檜山は山羊鬚《やぎひげ》を撫でて言った。 「卑怯で姑息かもしれないが、それが正直な心境でした」 「でも、対外的なスタンスを全員共通にしたことによって、当初の重要な違いを忘れてしまわないでくださいね。この事件に巻き込まれた五人の撮影隊は、はっきりと二つのグループに分かれていたということを」 「二つのグループって?」  小檜山が問い返した。 「事前にミイラのすり替えを知っていたグループと、知らなかったグループですよ。知っていたのは、拓哉さん本人と小檜山さんと天田さん。知らなかったのは、雅也と美保子さんです」 「そんなのはわかりきったことでしょう」 「死亡した拓哉さんは、当然ながら、すり替えを承知していたグループのほうです。そして誰がこのすり替えを知らないのかも、ちゃんとわかっていました」 「それで?」 「ぼくにひとつの疑問があるんですよ。ミイラとなって横たわった拓哉さんは、自分の頭上で展開する三人の会話を聞きながら、なんか変だぞと思わなかったのかな、と」  車の窓に貼《は》りついてパピルスを売ろうとする物売りの少年に向かって、要らないよと首をゆっくり横に振りながら、朝比奈は言った。 「三人の会話というのはすなわち、心臓スカラベを置きにきたときの天田さんと美保子さんと岡崎雅也の会話です。拓哉さんが残酷な死に方を強いられる直前の会話です。そのときのやりとりは、五時間ビデオにちゃんと収録されています。もれなく正確にね。ぼくはそれを聞きながら思ったんです。このやりとりを聞いていた拓哉さんは、ある真実に気づかなかったんだろうか、と」 「ある真実って?」  小檜山が問いかけたとき、いきなり朝比奈は後部座席のドアを開けて外に降り立った。 「どこへ行くんですか、朝比奈さん」  小檜山がびっくりして問いかけ、美保子も驚いた顔になった。 「ぼくがあなた方に与えられるヒントはここまでです。あくまでぼくの雇い人は美保子さんのお父さんなので、これ以上はもう言えない、そう決めたんですから。……じゃ、これで」 「これで……って? こんなところで車を降りて、どうするんですか」 「忘れたかなあ、ぼくはまだツタンカーメンの墓を見ていないんですよ」  カフェオレ色に染めた髪の毛を砂漠の風になびかせながら、朝比奈は笑った。 「ほかにも見たいお墓はいっぱいある。王妃の谷のほうも回りたいし、ハトシェプスト葬祭殿も見たい。それから東岸のカルナック神殿もね」 「だったら、おれの車で」 「だいじょうぶ、アラビア語はできないけど、ボディランゲージと多少の|バクシーシ《チツプ》で乗り切るから。小檜山さんは美保子さんのために、一刻も早く帰国便を手配してあげてください。そうじゃないと……」 「そうじゃないと?」 「美保子さん」  開けた車のドアに片手をかけたまま、朝比奈は小檜山の問いかけを無視して、後部座席の奥に座る沖美保子に語りかけた。 「お願いですから、一度だけ、ぼくのためにその黒いサングラスをはずしてくれませんか」  朝比奈の求めに戸惑いながら、美保子はゆっくりとそれを顔からとった。素顔の彼女が朝比奈と向きあった。  本来は愛くるしい顔立ちの美保子は、氷で固めたような無表情をしていた。それが朝比奈には悲しかった。 「あなたはもう、ぼくがお父さんに報告する内容を感づいていらっしゃいますね」  長い睫毛《まつげ》が一度だけまたたいた。  それを見てから、朝比奈は静かに言った。 「パリの二日間、とても楽しかった。ありがとう」  そして朝比奈はドアを閉じた。  小檜山は急いで運転席のドアを開けて朝比奈を呼び止めようとした。だが、カフェオレ色の髪の毛をした推理作家は、猛烈な物売りの攻勢をかき分けながら、白く輝く王家の谷を、若き少年王ツタンカーメンが眠っていた方角へと歩き出していた。 [#改ページ]    エピローグ ルクソールからのEメール[#「エピローグ ルクソールからのEメール」はゴシック体]  沖清之様。  まずはじめに、別途テキスト形式でまとめたふたつの添付ファイル(※[#T-CODE SJIS=#8740 FACE= 秀英太明朝KIGO ]㈰ミイラすり替え事件※[#T-CODE SJIS=#8741 FACE= 秀英太明朝KIGO ]㈪岡崎雅也万引き事件)について先にお読みください。また、今回美保子さんが私とは別に、先に帰国されることになった事情については、このレポートをすべてお読みになれば、ご理解いただけることと思います。  ともかく私からのお願いは、美保子さんがどんな立場に置かれようと、お父さまとして全力を挙げて守っていただきたいということです。美保子さんはまさかこんな結論をぼくが引き出してくるとは予想もせず、お父様が持ちかけた朝比奈耕作への依頼をあっさり受け入れたはずですから。  では、添付ファイル㈰㈪をお読みくださったものとして、核となる問題について話を進めます。  導かれた結論がショッキングであればあるほど、単刀直入に申し上げたほうがよいと思いますのでご了承ください。三年前、王家の谷で岡崎拓哉を窒息死に至らしめた人物は、あなたのお嬢さんである確率がかぎりなく高いと思われます。  拓哉の兄・雅也ではありません。美保子さんが殺人の責を負う可能性が高いと申し上げているのです。  お父さまとしては容易には信じられないでしょうが、もう一度、例の五時間ビデオを再生してみてください。そしてミイラの胸に心臓スカラベが置かれる場面で、ほかの三人がミイラに話しかけているときの口調にご注意ください。  添付ファイル㈰でレポートしましたように、本来ミイラとして包帯にくるまれていなければならない人物は、年齢二十四歳のメンバー最年長である小檜山努でした。映画『心臓スカラベ』で主役を務める進に扮《ふん》していたのは、最初から拓哉ではなく、小檜山だったのです。しかし小檜山は、万引きの露見を恐れるがゆえの雅也の殺意を警戒し、こっそり拓哉と「ミイラの中身交換」をします。この交換に気づいていないのは、雅也と美保子さんのふたりだけです。  ですから心臓スカラベを胸に置くために接近した三人のうち、事情を知っている天田芳樹は「進くん」というふうに役柄の名前でミイラに呼びかけています。微妙な配慮です。一方雅也のほうは「お〜い気分はどうですかあ」という感じで、明らかに年上の小檜山がミイラの格好をしていると信じ込んだ言葉遣いになっていて、それ以降も、弟にすり替わっていることに気づいた様子はありません。  ところが美保子さんの場合は、最初から馴《な》れ馴《な》れしい呼びかけになっている。一年生部員が、一浪二留の古株三年生に対する口の利き方ではまったくないのです。ただし、役柄上では恋人どうしの設定なので、その雰囲気でやっているのかなという気もしたのですが、美保子さんは、ミイラにストロー付きのボトルで水を飲ませたあと、その同じストローで自分も水を飲んでいる。これはどう考えても、ミイラの正体が恋人の拓哉であると見抜いていたとしか思えないのです。小檜山自身、美保子さんには個人的に好意をもったものの、あっさりふられたようなことを言っていましたから、相手が小檜山だと思っていたなら、美保子さんが間接キスのようなストローの共有をするとは考えにくいのです。  さすがに恋人の間柄だけあって、包帯を全身に巻いてあっても、全体的な体型が似通っていても、それは小檜山ではなく拓哉にすり替わっていると、美保子さんはすぐに見抜いたのでしょう。包帯のために自由に声が出せない状態でも、恋人なら「ウー」といううめき声だけでも拓哉だとわかるはずです。  それでも美保子さんが「どうして拓哉に変わっているの?」というような疑問を口にしなかったのは、たとえばこんな理由が考えられます。これはのちにミイラの包帯を解くシーンで本気で驚いた表情を出させるための演出とわかったが、ネタバレしたことを言うと監督の天田たちをシラケさせて悪いから、わざと気づかないふりをしていた、と。  それならば大した問題ではないのですが、ここで重要なのは、ポリアクリル酸ナトリウムのような高分子吸水材と水との組合せによって、拓哉を巧みに窒息死に至らしめる手段があることです。そして、雅也がその粉末をミイラの包帯の間に仕掛けたと思われるとき、美保子さんは水を飲ませるために、雅也のごく近くに立っていたという点です。  岡崎雅也は、友人が隣にいても電気店の店頭で商品を万引きしてしまうような男です。どうも彼は、客の前で堂々と魔術を行なうマジシャンのように、自分の手先の器用さに過剰な自信を持っている人種かもしれないのです。だとすれば、そばに美保子さんがいても、あるいは近くでビデオカメラが回っていても、かえって挑戦的な気持ちになって、真っ向から死のトリックを仕掛けようとしたかもしれません。実弟の拓哉ではなく、小檜山努を殺すためにです。  しかし、雅也のすばやい手さばきに美保子さんが気づいていたらどうでしょう。小檜山が雅也の万引きを気づいたように……。そして彼が包帯の間に仕掛けた物質の正体をとっさに見抜き、なぜ自分が水を飲ませる役を与えられているのかを美保子さんが悟ったらどうでしょう。高分子吸水材は女性にとっては身近な素材だけに、たちどころに雅也の邪悪な意図を見抜いた可能性がないとは言えません。  そして美保子さんは、こう考えるわけです。 (雅也は、直接手を下す役を私に押しつけながら、ミイラに扮した小檜山さんを殺そうとしている。けれども、ここに横たわっているのは小檜山さんではなく拓哉。そのことを雅也はまだ知らない……)  雅也の殺人トリックを見抜き、一方で小檜山たちのミイラのすり替えトリックも見抜いていたならば、ふつうは驚いて拓哉の命を守るために騒ぎ立てなければおかしい。彼は美保子さんの恋人なのですから。  でも、すべてをわかっていながら、意図的に黙っていたとしたら……。  たとえば、そもそも拓哉との関係がレイプまがいの強引な暴行によってはじまっており、できるだけ早く別れたかったのに、彼がストーカーまがいのしつこさで別離を拒否しているような状況があったとしたら。その一方で、拓哉の兄が別の目的で恐ろしいお膳立《ぜんだ》てを整えており、それを利用できそうだと感じたら、美保子さんは、知らんふりでそのプランに乗ろうと考えなかったでしょうか。  ミイラ役の人間に水を飲ませてあげるという役割をするだけで、自分につきまとっている人間が死ぬとしたら、その誘惑を断ち切ることが難しくてもやむをえないかもしれません。  そこには能動的な殺意はひとつもありません。また能動的な行動もひとつもない。水を飲ませてあげようという発想も美保子の考えではなく、雅也の命令だったからです。これ以上罪悪感もなしに人を殺す状況は、望んでも得られないでしょう。  沖さん、じつは早いうちから私はそのような仮説にたどり着いていたのです。そして美保子さんといっしょに旅をする間に、なんとかその仮説を否定できる要素を見つけようと頑張りました。しかし、私の推理が核心をついていけばいくほど、彼女の表情が沈んでいくのを見て、やりきれない気持ちになりました。  さらにもうひとつ、この仮説を側面から支える要素として、いまになってなぜ雅也は、美保子さんに結婚を前提とした交際を申し出てきたのか、という問題があります。それについて、私の推測を申し上げます。  岡崎雅也もまた、沖さんと同じように五時間テープのコピーを持っているはずです。それを何度も見直すうちに、美保子さんが馴れ馴れしい言葉でミイラに話しかけていることに気づいたのではないでしょうか。そして、それが意味する衝撃の事実に感づいたのではないでしょうか。  雅也は表向きには事故で弟を亡くしたという形で悲しみをこらえてきましたが、実際には、ミイラの正体が小檜山ではなく弟だと知ったとき、おのれの犯した過ちに気も狂わんばかりの思いとなったはずです。そしてこの三年間、自分を責めつづけてきたに違いありません。その結果、もしかすると雅也は、ショックの後遺症で精神のバランスを決定的に崩しているかもしれないのです。  当初雅也の怒りは自分自身と、それから小檜山に向けられていたと思います。ところがここにきて、美保子さんがすり替えを承知のうえで拓哉に水を与えたという結論を得たら、彼はどうすると思われますか。  知らずに弟を死に追い込んだ自分と、知っていて弟に死を与えた美保子さん。どちらが殺人の罪を負うべきかといえば、雅也の視点からすれば、当然美保子さんになる。いくら美保子さんが、自分は雅也に言われたとおりに水を飲ませただけと主張しても、その結果拓哉が死ぬとわかっていたならば、やはりそれは明白な殺人なのです。それが兄の雅也の言い分だったでしょう。  そこで彼は、弟への懺悔《ざんげ》の気持ちを込めて最後の|復讐に《ふくしゆう》出た。私はそう思います。  岡崎雅也は、決して弟の代わりに美保子さんと結婚できるチャンスを得たと喜んでいるのではありません。雅也は、弟を殺した沖美保子という女性に対し、最大級の報復を遂げるため、まず美保子さんを「妻」という名の捕虜にするつもりなのです。そうやって法的にも物理的にもしっかり囲い込んでから、ゆっくりゆっくりと怨念《おんねん》の毒《どく》牙がを突き立てようとしているに違いありません。彼の時代錯誤的な礼儀正しさは、理性が破壊されてしまったがゆえに生まれたものかもしれないのです。ですからお父さまは、絶対にその結婚だけは阻まねばなりません。  メールで冒頭からいきなりお嬢さんを犯人だと名指しした私に、ひどく憤慨《ふんがい》されたかもしれません。しかし、そう断言しなければ、美保子さんの危機は救えない。そう確信したからこそ、私は思うままに書きました。  どうかご無礼をお許しください。  なお、これはあくまで個人的な考えですが、美保子さんに関する私の推理が当たっていたとしても、彼女には法的な償いよりも、宗教的、精神的な償いをしてもらうほうが正しい選択であるような気がしてなりません。  長い人生においては、目をつぶって見なかったことにするひとこまも、また少なからずあるのではないでしょうか。    ルクソールにて 夜の「コーラン」を聞きながら [#地付き]朝比奈耕作 [#改ページ]  一枚の写真㈭  ルクソールのローカルフェリー[#「ルクソールのローカルフェリー」はゴシック体]  奇遇というよりないが、本作を脱稿した日から遡ること八年前の同じ日、私はこの写真に写っているナイル川を渡るルクソールのローカルフェリーに乗っていた。いちばん左の車がそうだ。ローカルフェリーとは、観光用ではなく地元住民用のもので、ごらんのとおり生活感のあふれる乗り物である。当時(一九九二年)は、まだルクソールの東岸と西岸を結ぶルクソール橋が建設されていなかったから(完成は一九九七年)写真手前の東岸から向こうの西岸へ渡るには、この地元用か、観光用フェリーのどちらかを利用するほかなかった。ローカルフェリーはたしかに安いが、私たち日本人は「外国人」料金となる。こうした乗り物だけでなく、遺跡の入場料などもすべてエジプト国民と我々「ガイジン」とでは価格設定が大幅に違う。エジプトにかぎらず、こういうケースは海外で往々にしてあるのでボラれたなどと早とちりをしないようにしたい。 (画像省略)  このときのエジプト旅行は家族三人で行ったが、カイロ大学教授のカラム・ハリル氏がカイロからルクソールまでずっと私たち一家に同行して遺跡の解説をしてくださったので、これ以上ない古代エジプト探訪の旅となった。  これをきっかけに夫婦でエジプトにはまってしまい、妻は早稲田大学考古学研究室の近藤二郎先生の「エジプト美術史」の講義を受けるなど、その世界の魅力に深く引き込まれてしまった。今回はワンナイト・ミステリーというサイズの関係上、古代エジプトの世界の入口にさらっとふれている程度だが、現地の乾いた空気を感じ取っていただければと思っている。  エジプトとインドは、はまったら抜け出せないディープな世界の両巨頭みたいなもので、また同時に、抵抗を感じる人にはとことん感じる世界のようである。  私が初めてエジプトを訪れたのは一九七六年だったが、それはもう強烈なカルチャーショックだったのと、当時はとにかく町中の臭いが強烈だったことを覚えている。物の本によれば、人間の記憶領域|と嗅覚《きゆうかく》領域は非常に近接しており、臭いで刻み込まれた記憶は容易に消えないそうである。たしかにいまでも初めてカイロの街を歩いたときの臭いを正確に再現できるから、その学説は的を射ているかもしれない。夜、ケニアへ飛ぶ飛行機の時刻に遅れそうになって、懸命にタクシーを拾おうとするが、乗り合い制のため、私が空港へ急いでいるにもかかわらず、次から次へ客を拾って、そっちの目的地へ先に行くばかりか、ついには途中で運転手が店に入ってビールを飲み出すなど、もうムチャクチャな体験をしたのも懐かしい思い出である。そこにも臭いの記憶がある。  けれども、この写真を撮ったときの一九九二年には、臭いのインパクトはずいぶん薄れていた。そして二十一世紀に入ったいま、エジプトはさらに近代的な「無臭世界」へと移行していくだろうが、臭いで旅の記憶を刻んでくれる独自の世界も、いつまでも健在であってほしいと思う。なお、古代エジプトの神や王の読み方には日本語表記でいろいろあり、必ずしも本書の表記で統一されているわけではないことを書き添えておく。 角川文庫『「ナイルの甲虫」殺人事件』平成13年1月25日初版発行